今回は二人の創業者没後(1894年)から、現在経営の舵取りをしているスターンファミリーが経営権を取得する1932年迄の40年間弱のストーリー。
1901年にパテック フィリップは株式会社へと法的な枠組みを変更する。一応、ジャン・アドリアン・フィリップの子孫が社長を歴任してゆくが、複数の役員による合議制スタイルが取られたようだ。世間一般的には個人商店から手堅い経営陣が円滑に運営をする企業として捉えられていたのかもしれない。
ところが、この時期は創業者の有形無形の財産を食い潰しながら表面的には栄光の時代を築きながら、リスクを取れるリーダーの不在から、時代の流れを直視せずに、新しい市場開拓や技術革新への挑戦も怠って、最終的にはアメリカ発の世界恐慌で止めを刺され、売却の危機に至る正にパテック フィリップ ブランドの栄光と挫折の時代である。
「パテック フィリップ正史(以下PP正史)」ではこの時期の栄光の側面を前編として、挫折の部分を後半に紹介している。何度も読み返すのだが、このジキルとハイドの様な両面性は交互では無く、同時進行しているので、本稿では明暗の側面にかまわず時系列で年表風に編集し直してみた。
1872年:ゴンドーロ&ラブリオ社との取引開始(※活発な取引は1900年以降だった様だ)
1882年:ジャン・アドリアン・フィリップの息子ジョセフ・エミール・フィリップ(体質虚弱な時計師であった)社長就任。
※当時ジャンは60代後半、ジョセフは20代前半。ジャンは娘婿を補佐役にしたようだが、ジェネレーションギャップが凄い!
1884年:ジュネーブ天文台の計時精度コンクールでパテック フィリップが首位から5位を独占。
1885年:アントワーヌ万国博覧会で選考審査員を務めたジャン・アドリアン・フィリップが出品された時計にパテック・ブランドの偽造品を発見。
1886年:ジュネーブ・シールの採用開始
1888年:低グレードの時計ブランド「ケタップ」の製造開始。
1892年:40年近く賃借していたグラン河岸ローヌ通り168番地を自社物件として購入し、当時の先進ビルへと大改装実施。
同年:ジョセフ・エミール・フィリップが米国の主要顧客ティファニー他を訪問。
下画像:ベルグ河岸から1853年に移転した賃借時代の工房。2フロアを使用し水力で工作機を稼働させた。隣のホテル「クロンヌ」は1871年の大火事で焼失したが工房は焼けなかった。グラン河岸ローヌ通り168番地(後に41番地に家屋番号変更)
1892年にパテック、フィリップ社は、それまで40年近く賃借していた工房を自社物件として購入。著名建築家により内外装から電気による照明、セントラルヒーティングが導入されるなど最先端の設備とスタイルで見事な改装がなされた。
上画像:1800年代末の自社物件となった新社屋。下写真とほぼ同時代の様なので完成予定イラストだったのかもしれない。屋上の時計周りの仕様が異なっている。
1892年頃:米ウイスキー王ジャック・ダニエルがスプリット秒針搭載ミニット・リピーターNo.90 455所有(下画像)
1893年:シカゴ万博博覧会に出展
1894年:創業者ジャン・アドリアン・フィリップが79歳で死去。
1895年:アルフレッド・G・シュタイン(ティファニーの元社員)を米国代理店とする契約調印、6年後の1901年には役員就任。
※1870年から1900年の30年間でアメリカ合衆国の国富は4倍になり、実業界に少数の絶大な富を手にする大立者が相次ぎ登場した。アンドリュー・カーネギー(鉄鋼)、ヘンリー・クレイ・フリック(カーネギー共同経営者)、ジョン・D・ロックフェラー(石油)、J・P・モルガン(証券)、ヘンリー・ゴールドマン(証券)、ヘンリー・フォード(自動車)、ジェームズ・ウォード・パッカード(自動車)、ジャック・ダニエル(ウイスキー)、ヘンリー・グレーブス・ジュニア(鉄道・御曹司)
1900年:パリ万国博覧会に出品された仏:パリのルロワの25種類の複雑機能付き懐中時計でグランプリ受賞(当時で世界最高の複雑時計)
1901年:パテック,フィリップ社(Patek, philippe & Cie)を資本金160万スイスフラン(CHF)で株式会社化し、社名を、伝統ある時計メーカー・パテック フィリップ株式会社(Ancienne Manufacture d'Horlogerie Patik Philippe & Cie,S.A.)に変更した。複数の古参社員が役員に就任。
上:1895年から1934年迄アメリカ市場を統括したアルフレッド・G・シュタイン(左端)と役員達。当時社長をバトンタッチしていったジャン・アドリアン・フィリップの子孫はPP正史に名は有れど、どこにも写真が無い。何となく状況が読めてくる。
1903年:低グレードの時計ブランド「ケタップ」の製造中止
1904年:ルイジアナ万国博覧会へ出展
1907年:ジョセフ・エミール・フィリップ社長が40代半ばで永眠、その息子アドリアン・フィリップ(やはり時計師からスタート)が社長業を継ぐ。
※1900年頃から1920年代半ばにかけては二つの潮流が有った。一つ目は南米ブラジルのリオにあったゴンドーロ&ラブリオ社顧客向けの特注時計クロノメトロ・ゴンドーロと呼ばれる時計(懐中時計から徐々に後半は腕時計)の販売が盛況となる。
上:1900年代初頭は懐中時計、1920年代はシンプルな腕時計がクロノメトロ・ゴンドーロとして製造販売された。
上:ゴンドーロ&ラブリオ社はリオのブルジョア階級顧客を「パテック フィリップ・クラブ」として組織化し、巧みな販売戦略で当時790CHFのクロノメトロ・ゴンドーロ・ウォッチを拡販した。
しかし、第一次世界大戦(1914年-1918年)はブラジルにも市場の停滞をもたらしビジネスも急速に不調になっていった。もう一つは女性用で先行していた腕時計が男性にも普及していった時代で、カルティエが製作したアルベルト・サントス・デュモン(ブラジル)の飛行船乗船用腕時計や第一次世界大戦で将校が求めた懐中時計にラグを溶接したオフィサーと呼ばれた腕時計など即効性かつ実用性が追求された必然の結果であった。
1922年:1923年にかけてリオデジャネイロ万国博覧会に出展し、グランプリを受賞。
※時計業界に於ける腕時計(特に男性用)への舵の切り換えにパテックは乗り遅れてしまう。1914年の第一次世界大戦開戦時の同社の腕時計生産比率はたったの7%に過ぎず、その大半は婦人用であった。1920年以前に製造された男性用腕時計はほぼブラジルのゴンドーロ&ラブリオ社向けであった。1924年に於いても腕時計はパテックの生産量全体の28%でしかなかった。このころからポツポツと複雑機能付きの時計も作り始めるが、30年以上も前に作られた婦人用時計の改装版であったり、ヴィクトラン・ピゲ・キャリバーやルクルト等の外部サプライヤー製エボーシュに頼ったものであり、それは質・量ともに不十分なものでしかなかった。1920年代後半には時代遅れになりつつあった高級な懐中時計に注力し始める。そのことは米国の著名な時計コレクター向け複雑時計の開発と納入の事実から明らかである。1930年スイス時計産業全体で腕時計比率が50%に達していたが、パテックのそれは僅か13%でしかなかった。
さらにこの時期、最大市場のアメリカを長く担当していた役員のアルフレッド・G・シュタインは病身で高齢でもあり、新たな腕時計向けの市場開拓は困難であった。さらに彼は非常に頑固で短気であったらしく、スイス本社への忠誠も衰えてきており、後進への権限移譲にも消極的であった。
このように後々に客観的な視点から振り返れば、明らかな時代の変化や危機の芽は見えるが、オンタイムでマネージメントに携わる雇われ経営者達の場合、ある者は目を反らし、また別の者は目を塞いでしまうのが世の常なのかもしれない。
1923年:時計収集家ジェームズ・ウォード・パッカード(1863年-1928年)デスククロック(No.197 707永久カレンダー、ムーンフェイズ、8日巻)を購入。
1927年:ジェームズ・ウォード・パッカードが12,815CHFで懐中時計(No.198 023日昇・日没、均時差、ミニット・リピーター、ムーンフェイズ、永久カレンダー、PP初の星座表)を購入、。翌1928年にパッカード永眠。
1927年:時計収集家ヘンリー・グレーブス・ジュニア(1868年-1953年)パッカード所有のデスククロックに外観が酷似する時計(No.197 707永久カレンダー、ムーンフェイズ、8日巻)を常に贔屓としたティファニーから購入。
1929年10月ウォール街大暴落
※暴落後一週間で300億米ドル超の損失があり、諸説で「第一次世界大戦でのアメリカの損失額」に等しいとある。
1931年:給与削減開始。このころ在庫のゴールド・ケースを溶かして売却し給与に充てていた。ゴンドーロ&ラブリオ社の債務が65,000CHFを超加する。
1932年:遂に売り出されたパテック フィリップ株式会社を文字盤サプライヤーであったスターン兄弟文字盤製作所が同年6月14日に買収。
※これに伴い社名は、現在のパテック フィリップ株式会社(Patek Philippe S.A.)とされた。この買収、当初は完成時計メーカーでは無くムーブメントのみを生産供給するエボーシュであったルクルトが有力であった。結果的にスターン兄弟の買収は、現代パテックのシンプルだけれど手抜きの無い美しく比類の無い文字盤作りに帰結している。
1933年:ヘンリー・グレーブス・ジュニアが1932年秋に完成した24個の複雑機能を備える超複雑な「グレーブス・ウォッチ」を6万CHFで購入。
1933年:アドリアン・フィリップがスターン兄弟を筆頭とした株主により総会で社長を解任される。
1934年:ゴンドーロ&ラブリオ社の未払債権回収不能決定。
※会社の存亡の危機と、ブランド史上最高に複雑なコレクター向け超絶懐中時計の完成と納品が、ほぼ同時期と言うのは皮肉が効きすぎていて滑稽ですらある。5年の歳月とジュー渓谷に名を馳せた名工達を結集して作られた他力本願の結晶。勿論それはそれで(自社主導製作である限りは)素晴らしいマニュファクチュールの到達点ではあるが、現代に置き換えれば
「Ref.5175グランドマスター・チャイムの様なレア物は、天才的な独立時計師達に頼んででも一握りのマニア向けに作るけれど、市場性のあるラグジュアリー・スポーツのノーチラスやアクアノートは適当なレベルで作ったが為に、競合に勝てなかったので本気で作りません」
と言う状況で、手厳しく言えば「裸の王様」か「堕ちた偶像」と言うべきだろう。
本稿を書いていて印象的だったのが、"髭"。創業者2名も立派な髭を蓄えていたが、この複雑な中継の時代もほぼ髭自慢のオンパレードだ。ところが最後の方になるとパッカードやグレーブス、次代を担うスターン兄弟には髭が無い。リオのパテック フィリップ・クラブのピクニック風景も良く見ると、若手には髭無しがポツリぽつりと混じっている。これも時代の流れを表している様で興味深い。
文責:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス フォークス)