パテック フィリップに夢中

パテック フィリップ正規取扱店「カサブランカ奈良」のブランド紹介ブログ

2019年9月の記事一覧

今回は二人の創業者没後(1894年)から、現在経営の舵取りをしているスターンファミリーが経営権を取得する1932年迄の40年間弱のストーリー。
1901年にパテック フィリップは株式会社へと法的な枠組みを変更する。一応、ジャン・アドリアン・フィリップの子孫が社長を歴任してゆくが、複数の役員による合議制スタイルが取られたようだ。世間一般的には個人商店から手堅い経営陣が円滑に運営をする企業として捉えられていたのかもしれない。

ところが、この時期は創業者の有形無形の財産を食い潰しながら表面的には栄光の時代を築きながら、リスクを取れるリーダーの不在から、時代の流れを直視せずに、新しい市場開拓や技術革新への挑戦も怠って、最終的にはアメリカ発の世界恐慌で止めを刺され、売却の危機に至る正にパテック フィリップ ブランドの栄光と挫折の時代である。

「パテック フィリップ正史(以下PP正史)」ではこの時期の栄光の側面を前編として、挫折の部分を後半に紹介している。何度も読み返すのだが、このジキルとハイドの様な両面性は交互では無く、同時進行しているので、本稿では明暗の側面にかまわず時系列で年表風に編集し直してみた。
1872年:ゴンドーロ&ラブリオ社との取引開始(※活発な取引は1900年以降だった様だ)
1882年:ジャン・アドリアン・フィリップの息子ジョセフ・エミール・フィリップ(体質虚弱な時計師であった)社長就任。
※当時ジャンは60代後半、ジョセフは20代前半。ジャンは娘婿を補佐役にしたようだが、ジェネレーションギャップが凄い!
1884年:ジュネーブ天文台の計時精度コンクールでパテック フィリップが首位から5位を独占。
1885年:アントワーヌ万国博覧会で選考審査員を務めたジャン・アドリアン・フィリップが出品された時計にパテック・ブランドの偽造品を発見。
1886年:ジュネーブ・シールの採用開始
1888年:低グレードの時計ブランド「ケタップ」の製造開始。
1892年:40年近く賃借していたグラン河岸ローヌ通り168番地を自社物件として購入し、当時の先進ビルへと大改装実施。
同年:ジョセフ・エミール・フィリップが米国の主要顧客ティファニー他を訪問。

下画像:ベルグ河岸から1853年に移転した賃借時代の工房。2フロアを使用し水力で工作機を稼働させた。隣のホテル「クロンヌ」は1871年の大火事で焼失したが工房は焼けなかった。グラン河岸ローヌ通り168番地(後に41番地に家屋番号変更)
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1892年にパテック、フィリップ社は、それまで40年近く賃借していた工房を自社物件として購入。著名建築家により内外装から電気による照明、セントラルヒーティングが導入されるなど最先端の設備とスタイルで見事な改装がなされた。
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上画像:1800年代末の自社物件となった新社屋。下写真とほぼ同時代の様なので完成予定イラストだったのかもしれない。屋上の時計周りの仕様が異なっている。
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1892年頃:米ウイスキー王ジャック・ダニエルがスプリット秒針搭載ミニット・リピーターNo.90 455所有(下画像)
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1893年:シカゴ万博博覧会に出展
1894年:創業者ジャン・アドリアン・フィリップが79歳で死去。
1895年:アルフレッド・G・シュタイン(ティファニーの元社員)を米国代理店とする契約調印、6年後の1901年には役員就任。

※1870年から1900年の30年間でアメリカ合衆国の国富は4倍になり、実業界に少数の絶大な富を手にする大立者が相次ぎ登場した。アンドリュー・カーネギー(鉄鋼)、ヘンリー・クレイ・フリック(カーネギー共同経営者)、ジョン・D・ロックフェラー(石油)、J・P・モルガン(証券)、ヘンリー・ゴールドマン(証券)、ヘンリー・フォード(自動車)、ジェームズ・ウォード・パッカード(自動車)、ジャック・ダニエル(ウイスキー)、ヘンリー・グレーブス・ジュニア(鉄道・御曹司)

1900年:パリ万国博覧会に出品された仏:パリのルロワの25種類の複雑機能付き懐中時計でグランプリ受賞(当時で世界最高の複雑時計)
1901年:パテック,フィリップ社(Patek, philippe & Cie)を資本金160万スイスフラン(CHF)で株式会社化し、社名を、伝統ある時計メーカー・パテック フィリップ株式会社(Ancienne Manufacture d'Horlogerie Patik Philippe & Cie,S.A.)に変更した。複数の古参社員が役員に就任。
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上:1895年から1934年迄アメリカ市場を統括したアルフレッド・G・シュタイン(左端)と役員達。当時社長をバトンタッチしていったジャン・アドリアン・フィリップの子孫はPP正史に名は有れど、どこにも写真が無い。何となく状況が読めてくる。

1903年:低グレードの時計ブランド「ケタップ」の製造中止
1904年:ルイジアナ万国博覧会へ出展
1907年:ジョセフ・エミール・フィリップ社長が40代半ばで永眠、その息子アドリアン・フィリップ(やはり時計師からスタート)が社長業を継ぐ。

※1900年頃から1920年代半ばにかけては二つの潮流が有った。一つ目は南米ブラジルのリオにあったゴンドーロ&ラブリオ社顧客向けの特注時計クロノメトロ・ゴンドーロと呼ばれる時計(懐中時計から徐々に後半は腕時計)の販売が盛況となる。
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上:1900年代初頭は懐中時計、1920年代はシンプルな腕時計がクロノメトロ・ゴンドーロとして製造販売された。
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上:ゴンドーロ&ラブリオ社はリオのブルジョア階級顧客を「パテック フィリップ・クラブ」として組織化し、巧みな販売戦略で当時790CHFのクロノメトロ・ゴンドーロ・ウォッチを拡販した。

しかし、第一次世界大戦(1914年-1918年)はブラジルにも市場の停滞をもたらしビジネスも急速に不調になっていった。もう一つは女性用で先行していた腕時計が男性にも普及していった時代で、カルティエが製作したアルベルト・サントス・デュモン(ブラジル)の飛行船乗船用腕時計や第一次世界大戦で将校が求めた懐中時計にラグを溶接したオフィサーと呼ばれた腕時計など即効性かつ実用性が追求された必然の結果であった。

1922年:1923年にかけてリオデジャネイロ万国博覧会に出展し、グランプリを受賞。

※時計業界に於ける腕時計(特に男性用)への舵の切り換えにパテックは乗り遅れてしまう。1914年の第一次世界大戦開戦時の同社の腕時計生産比率はたったの7%に過ぎず、その大半は婦人用であった。1920年以前に製造された男性用腕時計はほぼブラジルのゴンドーロ&ラブリオ社向けであった。1924年に於いても腕時計はパテックの生産量全体の28%でしかなかった。このころからポツポツと複雑機能付きの時計も作り始めるが、30年以上も前に作られた婦人用時計の改装版であったり、ヴィクトラン・ピゲ・キャリバーやルクルト等の外部サプライヤー製エボーシュに頼ったものであり、それは質・量ともに不十分なものでしかなかった。1920年代後半には時代遅れになりつつあった高級な懐中時計に注力し始める。そのことは米国の著名な時計コレクター向け複雑時計の開発と納入の事実から明らかである。1930年スイス時計産業全体で腕時計比率が50%に達していたが、パテックのそれは僅か13%でしかなかった。
さらにこの時期、最大市場のアメリカを長く担当していた役員のアルフレッド・G・シュタインは病身で高齢でもあり、新たな腕時計向けの市場開拓は困難であった。さらに彼は非常に頑固で短気であったらしく、スイス本社への忠誠も衰えてきており、後進への権限移譲にも消極的であった。
このように後々に客観的な視点から振り返れば、明らかな時代の変化や危機の芽は見えるが、オンタイムでマネージメントに携わる雇われ経営者達の場合、ある者は目を反らし、また別の者は目を塞いでしまうのが世の常なのかもしれない。

1923年:時計収集家ジェームズ・ウォード・パッカード(1863年-1928年)デスククロック(No.197 707永久カレンダー、ムーンフェイズ、8日巻)を購入。
1927年:ジェームズ・ウォード・パッカードが12,815CHFで懐中時計(No.198 023日昇・日没、均時差、ミニット・リピーター、ムーンフェイズ、永久カレンダー、PP初の星座表)を購入、。翌1928年にパッカード永眠。
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1927年:時計収集家ヘンリー・グレーブス・ジュニア(1868年-1953年)パッカード所有のデスククロックに外観が酷似する時計(No.197 707永久カレンダー、ムーンフェイズ、8日巻)を常に贔屓としたティファニーから購入。
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1929年10月ウォール街大暴落

※暴落後一週間で300億米ドル超の損失があり、諸説で「第一次世界大戦でのアメリカの損失額」に等しいとある。

1931年:給与削減開始。このころ在庫のゴールド・ケースを溶かして売却し給与に充てていた。ゴンドーロ&ラブリオ社の債務が65,000CHFを超加する。
1932年:遂に売り出されたパテック フィリップ株式会社を文字盤サプライヤーであったスターン兄弟文字盤製作所が同年6月14日に買収。
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※これに伴い社名は、現在のパテック フィリップ株式会社(Patek Philippe S.A.)とされた。この買収、当初は完成時計メーカーでは無くムーブメントのみを生産供給するエボーシュであったルクルトが有力であった。結果的にスターン兄弟の買収は、現代パテックのシンプルだけれど手抜きの無い美しく比類の無い文字盤作りに帰結している。

1933年:ヘンリー・グレーブス・ジュニアが1932年秋に完成した24個の複雑機能を備える超複雑な「グレーブス・ウォッチ」を6万CHFで購入。
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1933年:アドリアン・フィリップがスターン兄弟を筆頭とした株主により総会で社長を解任される。
1934年:ゴンドーロ&ラブリオ社の未払債権回収不能決定。

※会社の存亡の危機と、ブランド史上最高に複雑なコレクター向け超絶懐中時計の完成と納品が、ほぼ同時期と言うのは皮肉が効きすぎていて滑稽ですらある。5年の歳月とジュー渓谷に名を馳せた名工達を結集して作られた他力本願の結晶。勿論それはそれで(自社主導製作である限りは)素晴らしいマニュファクチュールの到達点ではあるが、現代に置き換えれば
「Ref.5175グランドマスター・チャイムの様なレア物は、天才的な独立時計師達に頼んででも一握りのマニア向けに作るけれど、市場性のあるラグジュアリー・スポーツのノーチラスやアクアノートは適当なレベルで作ったが為に、競合に勝てなかったので本気で作りません」
と言う状況で、手厳しく言えば「裸の王様」か「堕ちた偶像」と言うべきだろう。

本稿を書いていて印象的だったのが、"髭"。創業者2名も立派な髭を蓄えていたが、この複雑な中継の時代もほぼ髭自慢のオンパレードだ。ところが最後の方になるとパッカードやグレーブス、次代を担うスターン兄弟には髭が無い。リオのパテック フィリップ・クラブのピクニック風景も良く見ると、若手には髭無しがポツリぽつりと混じっている。これも時代の流れを表している様で興味深い。

文責:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス フォークス)

例年の事ながら、この時期はブログ端境期でネタ不足に悩まされる。そろそろ入荷し始めるはずの新製品が次々来てくれれば、実機編として紹介できるのだけれど・・
そんな中でやってきたのが2年前にご紹介したPATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY」日本語タイトル「パテック フィリップ正史」の日本語翻訳版。 544ページに及ぶ長編なので、さすがに英語版は多数掲載されている写真等を眺めているしかなかった。日本語訳に関してはパテックオーナーの楽しみである「パテック フィリップ・インターナショナルマガジン」をずっと翻訳されているジュネーブ在住の小金井良夫氏の訳文をベースに、PPJ(パテック フィリップ ジャパン)のスタッフが1年以上かかって手を入れた力作と聞いた。原作はロンドン在住で芸術をテーマに幅広く執筆をされているニコラス・フォークス氏。インターナショナルマガジンの時計関連記事の常連執筆者でもある。2011年にスイス・パテック社から執筆打診を受け、5年の歳月を費やして2016年にイギリスで初版が発行された。
3日ほど掛けてザっと読破したが、とても一度では収められないメモリー&CPUの初老脳ミソなので、内容的にブログに向かないのを敢えて承知で何度かに分けてあらすじを紹介する事にした次第。ほぼ自分自身の為の備忘録用である。
尚、当店初め各正規店経由でのご購入も可能なので、ネタバレ御免の方は本稿は飛ばしていただきたい。2019年9月現在の書籍価格は税別24,200円、現在在庫切れ入荷待ち。
まず最初に創業年1839年から2015年10月までの約175年に及ぶブランドの歴史を、自分なりザックリと整理してみた。まずは現経営ファミリーのスターン家による1932年からの経営権移行を最大の節目としてその前と後に分けたい。そしてその前半期は創業者の一人であるジャン・アドリアン・フィリップの死亡した1894年以前の創業とブランド確立期とそれ以降に分けたい。後半期のスターンファミリー時代はその時々の経営状況や時計業界の推移で分けるよりも経営の主軸を担ってきたファミリーの4世代の主役時代で分割出来そうだ。

で、初回は1800年代初頭からの約100年弱を足早に辿ってみたい。創業期はとても大事なのだろうけれど、時代が古すぎるし、ほぼ馴染の無いナポレオン時代の東ヨーロッパが舞台であり、ほぼ懐中時計全盛期なので正直なところ半眼になってコックリする事、半端では無かった。
創業者の一人アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック(1812年、ポーランドにて誕生、本名アントニ・パテック・プラヴヅツから1843年頃ジュネーブで改名)は、皇帝ナポレオン率いるフランスが攻め込んだ超大国ロシアに翻弄されたポーランドの独立の為に、若き日には革命に身を投じる軍人であった。しかし1831年にポーランド革命は頓挫し、祖国を追われるようにパテックは19歳で亡命を余儀なくされた。
一時期フランスで植字工を経験し、1835年にはスイス・ジュネーブ州レマン湖岸の村で絵画を学ぶ内に、近隣のジュネーブ市の中心商業である時計産業に興味を持つようになった。彼はジュネーブ市に於いてポーランド人社会での交友関係を通じて20個の時計を販売する事からビジネスをスタートさせた。1839年5月1日にやはり東欧からの移民であり時計の製作技能を持つフランソワ・チャペック(チェコ・ボヘミア生まれで後にポーランドに帰化)と共同で小さな時計事業をジュネーブ市内のベルグ河岸29番地(ローヌ河北岸)でパテック、チャペック社をスタートさせた。同年7月にはチャペックの紹介で伴侶を得たパテックは、ポーランド人社会を基盤に徐々にビジネスを発展させる。しかし時計製作を担当していたチャペックの浪費癖等の理由から両者の関係が悪化し、1845年には6年間の契約期間満了を持って二人は決別した。
相前後して、将来の市場拡大の為に1844年12月、パテックはパリの工業製品見本市であるパリ産業博覧会に出展した。この際に当時画期的な発明として産業博覧会の銅賞を受賞した「鍵なし巻上げ機構」を考案した時計師ジャン・アドリアン・フィリップの存在を知る。フィリップは1815年にフランス人時計製作者の息子として生まれ、父から時計製作の手ほどきを受けたのち単身ロンドンで修行を積んだ。帰国後は政府認可のマニュファクチュール工房を、ベルサイユに開設して時計製作をしていた。
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チャペックと決別した1845年、パテックはパリでフィリップと共同経営契約の交渉を開始し、ベルグ河岸15番地に新しいパテック社を設立した。同じ年にフィリップは「鍵なし、リューズ巻上げ・時刻合わせ機構の特許」を登録した。
尚、馬の合わなかった最初のパートナーのチャペックとジャン・アドリアン・フィリップは共に時計師であったが、両者には決定的な違いがあったようだ。チャペックは「ルパサージュ」と呼ばれる購入エボーシュ(ムーブメント)に仕上げと精度向上のみを施す職人的時計師であったのに対し、フィリップはムーブメントを設計し製作する創造的時計師であり、常に最新の技術動向を追い求め、技術革新への情熱を持っていた様である。1850年にパテック社は自社に工作機械を導入し、エボーシュの製作を開始している。
この1840年代後半の記述は、大層に難しく書き辛いのである。1848年にフランスで始まったヨーロッパで吹き荒れた革命の嵐、その経済的混乱に伴う創業間もないパテック社の経営危機、それでも革命の余波によるポーランド独立を願って止まないパテックの背反する想い。パテック氏の性格と言うのは中々興味深い。経営者に必須の先見の明はある。同時に自己顕示欲も強かったようで、新しいパートナーのフィリップ氏ともその点で結構ギクシャクしたところが有ったようだ。ともあれ1851年1月には社名が「パテック、フィリップ社」へと変更された。
1851年のロンドン・ハイドパークで開催された世界初の万博(6ヶ月、600万人集客)に出展したパテックは決定的大成功を収めた。その象徴はヴィクトリア女王と夫君で万国博覧会自体を発案したアルバート公によるパテック フィリップ製懐中時計購入であり、博覧会からパテックには金メダルが贈呈された。結果的に画期的なマーケティング手法となった博覧会事業への参加・出展は今現在でも継続されている経営方針となっている。
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ロンドン万博の成功からスタートした1850年代は、パテック フィリップにとって順調に事業が拡大した。1853年には8年で手狭になったベルグ河岸15番からローヌ河対岸南側のグラン河岸に位置するローヌ通り168番地(現在は本店ブティックであるジュネーブ・サロン)に工房を移転した。しかしパテック フィリップ社は好調であったが、1850年代もヨーロッパ自体の景気は安定せずスイス時計産業は順調では無かった様だ。
パテックは既にニューヨークのティファニー等の取引先が有り、1849年にカリフォルニアで始まったゴールドラッシュに湧くアメリカへの長期単身出張に1854年11月中旬に出発した。翌年の4月頭にロンドンに戻るまで、彼はニューヨークを皮切りに東海岸と中東部の主要都市を精力的に訪れている。マサチューセッツではウォルサムの近代的な蒸気機関を動力源とした安価かつ大量生産される時計製造工場を視察し、高品質で美的かつ独自性を有する高級時計メーカーとして生き残る経営方針を確信している。市場調査と営業を目的とした出張だったが、盗難や移動中の事故などで相当に肉体的にも精神的にも非情にタフな旅で疲労困憊に陥っている。それでもこの大国には将来性があり、限られたアメリカンドリーマーが有する巨万の富の存在を知り、非常に有望で大事な高額品マーケットである事に気づいていた。
この悲惨な旅の経験にもかかわらず1858年には、さらに広範なヨーロッパ各地への長期出張を敢行し営業活動を行っている。アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックは過酷なアメリカ出張で患ったひどいリウマチに悩まされながらも、常に新しいマーケットと顧客を渇望する熱心なビジネスマンだったようだ。

ビジネスパートナーのジャン・アドリアン・フィリップは、創造的時計師として様々な改良をアイデアし自身もしくは法人として数々の特許を登録した(1840年代後半~1880年代初頭)。
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また1860年代には永久カレンダー機構等を搭載したグランドコンプリケーションの生産も始まり、多くがアメリカ向けに出荷された。さらに1868年にハンガリーの貴族夫人の発注によってスイス製初の腕時計も作られている。
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そのころ事業は順調に伸びていたが、1872年にはアメリカの最重要顧客であったティファニーが、パテック社のお膝元であるジュネーブのコルナバン駅直近に米国流のハイテクな時計工場を建設した。しかし、この違和感のあると言わざるを得ない大胆な挑戦は4年で頓挫する。その跡片付けに関わったパテック フィリップ社には、その名残としてジュネーブ本店に当時の巨大な金庫が飾られている。そんな経緯が有りながらも両社のビジネス上の繋がりは強固で、特別なパートナーシップは今日も続いており、現在でも生産されているパテックとのダブルネームのタイムピースは、知る限りでティファニーだけしか無いはずだ。
自身の名前を冠したビジネスの名声を獲得する事に邁進した創業者アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックは1877年にこの世を去る。しかし彼の息子レオン・ド・パテックは、パテックと言う姓の使用料を年収として受け取るのみで、同社の経営を引き継ぐ事は無かった。さらに17年後の1894年には、もう一人の創業者ジャン・アドリアン・フィリップが穏やかに永眠した。
このフィリップの晩年20年間にもパテック フィリップ社は様々な博覧会や万博に驚異的なタイムピースを出展し、その地位を不動の物とした。その一方でウォルサムを代表としたアメリカの安価で大量に生産される時計への対抗手段として、ジュネーブ天文台の計時精度コンクールが1873年から開催され、パテックは精度における圧倒的優位性を発揮し続けた。
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当時のもう一つの厄介な問題は、パテック フィリップの偽造品の横行であった。この対策の一つが1880年代の終わりにカラトラバ十字を商標登録する事であった。またジュネーブ州としても州内で製造され、新たに発足された検査機関で良好な品質基準を満たした時計にのみ、州の紋章刻印を許可する制度を敷いた。いわゆる「ジュネーブ・シール」の始まりである。

書きはじめは、もっと凝縮するつもりだったが、あらためてエピソードの多さを思い知らされた。創業期の"生み"の苦しみや、戦乱による不況にも何度も経営は揺さぶられている。1830年代からはイギリス以外の国々で産業革命が始まった時代背景にあり、近代的な大量生産に成功するアメリカが重要な市場になると同時に、競合として台頭してきたジレンマもあったようだ。普通この手のブランドストーリーは好調時(山)が主で、不遇時(谷)を従として綴られる事が多いが、この"正史"は苦境を主体に書かれている気がする。共同経営者の有り方にも赤裸々で歯に衣着せぬ表現が多々されており興味深い。ともあれ二人の創業者時代の後半生は、確固たる高級時計ブランドが確立され、良好な経営状況であった様だ。

文責:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス フォークス)

今年は7月が涼し目で8月はお盆迄が酷暑、盆明けはずっと雨ばかりで少し暑さもやわらぎ秋の風情。ところが9月に入って残暑?とは言えない猛暑に逆戻り。世界的にもハリケーンや台風が年々その猛威を増している様で、天候不順を通り越して徐々に住みにくい地球化が進んでいるような気がする。経済、政治、宗教、移民などに端を発する世界各地での諍いにもこの異常気象による人々のいらだちが拍車をかけているのかも知れない。
前回に引き続き紹介するワールドタイムには、そんな世界でのパワーバランスの変遷が反映されてきた歴史が詰まっている。タイムピースであると同時にタイムカプセルの一面を持っている。
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最新の文字盤を装備したRef.7130R-013レディス・ワールドタイム。判り易いターニングポイントはTOKYOとBANGKOKの間に存在する。パテック社が表示都市名の変更を決めたのは昨年度で、よもや変更前の都市が一年以内にアジア最大の政治問題を抱える事になろうとは想像も出来なかっただろう。前回紹介したメンズ同様にセンターギョーシェには透明なエナメル焼結処理の上からSWISS MADEとプリントされるが、なぜなのか文字間隔がかなり開いている(特にM A D E)。気になって他のレディスモデルの実機やカタログを見たが、どうもこのワールドタイムだけの特殊仕様のようだ。
下記画像はModèle 1415 HU(1939)、現在1時間の時差を持つLONDONとPARIS、古くは同じ時間帯を採用してきた。文字表記もLONDRESだったり、東京はTOKIOとなっていて興味深い。
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当時は一つのタイムゾーンに対して2~3都市の表示がざらにあって、デザイン的な座りの良さよりも主要な都市を出来るだけ盛り込む実用性が優先されていたようだ。アラスカとタヒチが同じ時間帯を共有しているという面白い発見も出来る。さしずめ東京と併記されそうなお友達は親日国のパラオだろうか。
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メンズの現代ワールドタイムは第3世代(2000年/第1世代Ref.5110、2006年/第2世代Ref.5130、2016年/第3世代Ref.5230)まで進化している中で、レディスは2011年に初出となっている。どのメンズともペア仕様ではなく、カラトラバの素直なクンロクケースにダイアルはメンズ初代Ref.5110に似た顔が与えられた。針の形状はほぼ同じだ。
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ワールドタイムのほぼ完全なペアモデルとしては2014年の175周年記念としてムーンフェイズ付きの限定モデルが発表されている。もちろん凄まじい争奪戦だった。(上の画像)
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メンズと全く同じ極薄自動巻キャリバー240 HUを搭載するがケースの厚みは8.83mmで紳士用(10.23mm)より1.4mm薄く仕上げてある。ベゼルへのダイヤセッティングは見るからに滑らかで衣類への引っ掛かりを防止するパテックらしい実用的な設計だ。
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ピンバックルにも27個のダイヤが同様にセットされている。ところでレディスにはいわゆるメンズのフォールディングバックル(二つ折りタイプ)が初期設定されているモデルが非常に少ない。ノーチラスやアクアノートのレディスには専用のメンズ同様の両観音バックルが初期設定されているのだが、今回のワールドタイムの様なクラシックなモデルではほぼ全てピンバックル仕様でリリースされている。別売アクセサリーとして11mmや14mmの各素材の二つ折りフォールディングバックルは用意されているし、2014年リリースの175周年記念限定レディスモデルにはフォールディングバックルが初期設定だった。対応は出来るにもかかわらずピンバックル主流はなぜか。
少し前までブライトリングのストラップモデルは男女ともピンバックルとフォールディングバックルを購入時に選択する事が出来た。男性は殆どが少し高くなるフォールディングタイプを選び、女性はほぼ全員がピンタイプを選択した。着脱時の万が一の落下を嫌がる男性、一方女性は見た目同じなら少しでも財布に優しい方が良いという意見だった。パテックの場合は18金素材が圧倒的に多いので両バックルの価格差は結構あるのだが、それがレディスをピン主流にしている理由かどうかは判然としない。個人的には女性は少しでも軽くて、細めの腕にはフォールディングタイプの曲線カーブの形状が個人個人にフィットし辛いからではないかと思っている。


Ref.7130R-013
ケース径:36mm ケース厚:8.83mm 
ラグ×美錠幅:18×14mm 防水:3気圧
ケースバリエーション:RG,WG
ダイヤセッティング:ベゼル(62個 約0.85ct) ピンバックル(27個 約0.21ct)
文字盤:アイボリー・オパーリン、ハンドギョーシェ ゴールド植字インデックス
ストラップ:ブリリアント(艶有り)・ダーク・チェスナット手縫いアリゲーター
価格:お問い合わせください
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ケース径36mmもメンズより2.5mm絞られている。手巻きクロノグラフなどもそうだが男女共通のエンジンを積むモデルでは、ケースとムーブのタイト感がレディスの方が勝るので後ろ姿に於いては見返り美人の婦人物に軍配を上げたい。

Caliber 240 HU

直径:27.5mm 厚み:3.88mm 部品点数:239個 石数:33個 
パワーリザーブ:最低48時間
テンプ:ジャイロマックス 髭ゼンマイ:Spiromax®(Silinvar®製)
振動数:21,600振動 
ローター:22金マイクロローター反時計廻り片方向巻上(裏蓋側より)

文責、撮影:乾
参考:Wristwatches Martin Huber & Alan Banbery P.243
2014年刊行-パテック フィリップ創業175周年記念 P.28,29

PATEK PHILIPPE 公式ページ
PATEK PHILIPPE 公式インスタグラム
※毎月19日未明に新規投稿有り(スイス時間18日18:39ブランド創業年度由来)月一投稿なので作り込みスゴイです。
当店インスタグラムアカウントinstagram、投稿はかなりゆっくりですが・・

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カサブランカ奈良

〒630-8013 奈良市三条大路1-1-90-101
営業時間 / AM11:00~PM7:00
定休日 / 水曜日・第一木曜日
TEL / 0742-32-5555
> ホームページ / http://www.tokeinara.com/

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