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パテック フィリップ正規取扱店「カサブランカ奈良」のブランド紹介ブログ

パテック フィリップ正史要約その5-フィリップ・スターン中編

皆様、新年あけましておめでとうございます。本年も拙ブログにお付き合いの程、宜しくお願い申し上げます。
約30年近く時計に関わる商いをしてきたが、昨年の12月ほど消費マインドの低下を感じた事は過去無かった。パテックの客注分の入荷で売り上げと利益だけは、お陰様でなんとか最低限確保できたが、購入目的のご来店がこの時期としては極端に少なく歳末感やクリスマス商戦感が全く感じられ無かった。まるで店は暇だったのだがスタッフを含め何かとバタバタと忙しく、12月はとうとう記事が一本も公開できなかった。
そして気が付けば令和2年が既に始まって居り、また一つ齢を重ねる宿命が待っている。同時に店舗は老舗としての年輪を加える事になり、いつも複雑な心境にさせられる年頭である。

今回は、この時期のフィリップ・スターンの記述に有る"ライフスタイルの変化"から始まるノーチラスの話題から始めたい。彼自身も父アンリ・スターンの血を受けてスキーやヨットの愛好家であり、セミプロ級の腕前で数々の優勝タイトルに輝いた経歴を持っており、一早くフィットネスや健康に関する時代の変化を察知したのであろう。1968年4月のニューヨーク・タイムズが『最新流行のスポーツ、ジョギング』と題された記事を報道。フィットネスへの熱狂が始まるきっかけとなった。
多くの人々が、健康の為に運動し、スポーティで頑丈な時計が求められるようになった。
このニーズに最初に答えたのが、1972年に天才時計デザイナーのチャールズ・ジェラルド・ジェンタにより考案されたオーディマ・ピゲのロイヤル オークであった。遅れること4年の第二弾が、同じくジェンタデザインを採用したパテック フィリップのノーチラスである。デビュー当時の両者は同じデザイナーによって考案され、ジャガー・ルクルト社が開発したエンジン(AP/Cal.2121、PP/Cal.28-255)もほぼ同じ物であり、まるで兄弟の様であったが決定的に違ったのは、その防水性の差である。ロイヤル オークがそのケースの薄さゆえ僅か50m防水にあったのに対して、ノーチラスは125mもの防水性を確保した。
ジェンタはエレガントな薄いケースデザインを優先したため、ロレックスの厚いオイスターケースに代表されるスクリューバックと言う裏蓋構造を取る事が当時の技術では出来なかった。その解決策として彼はケースを2ピース構造とし、ベゼルとケースの間にゴムパッキンを挟む事で防水性能を確保し、薄いケースデザインを実現した。防水に対する基本的な考え方は両者同じながらロイヤル オークが特徴的な8本のビスでベゼルとケースを合体させていたのに対して、ノーチラスは3時と9時の"耳"と呼ばれる部分の採用でベゼルとケースをより強固に圧着固定する事に成功した。
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いつの時代も時計と車の流行は、連動している様でエレガントなスポーツウオッチ誕生と呼応するように1970年にデビューしたのがエレガントなSUV"砂漠のロールスロイス"と呼ばれたイギリスの名車レンジローバーである。パテック社内でも「レンジの時計バージョン、ラグジュアリーSUVにふさわしい防水スポーツウォッチ」の位置づけとしてノーチラスは開発された。後付けで知った話ながらレンジオーナーとしてはくすぐったい気持ちではある。
この時期、まだまだスイス機械式時計は冬の時代が続いていたが、1930年代ほどの深刻さでは無かったようだ。ただ強いスイスフランと金価格の高騰と乱高下によって、創業140周年を盛大に祝う事が、はばかられる代わりに1989年の150周年を特別な祝賀にする事をフィリップ・スターンは決心する。時を同じくして当時パテック社内で最高の時計師であったマックス・ステュデールから過去にない最も複雑な携帯用機械式時計製作の打診を受けたのである。後述するキャリバー89開発のプロジェクトの種はこの時蒔かれていたのかも知れない。

1980年の年末、フィリップ・スターンは極東への長期出張などを通じて、時代を席巻し機械式時計を駆逐してきたクォーツ時計が目新しさを失いつつあり、思慮深い時計購入者は真に永遠の価値を持ち偉大な芸術作品同様の陳腐化しない価値を維持出来るのは見事に設計された複雑な機械式時計である事を再認識し始めたと推察するようになった。
1980年の広告コピー「コンプリケーテッド・ウォッチ:昨日の名人芸、今日のコレクターズアイテム、明日のミュージアムピース」は現在にも立派に通じるパテック フィリップのブランド価値を表現する名言だと思う。
アンリ・スターンが個人的な趣味として収集していた七宝細密画コレクションは非常に僅かな物であったが、現社長ティエリー・スターンが子供時代に時計に興味を持つきっかけとなった。また今日のパテック フィリップ・ミュージアムの膨大なコレクションの始まりでもあった。アンリで始まったコレクションの収集はフィリップに引き継がれてより本格的になってゆくが、そこには重要なキーパーソンであるアラン・バンベリーの存在が有った。
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ロンドン出身の彼はジュネーブの時計学校で時計製作を学び、苦労して完璧なフランス語を習得する。ユニバーサルで1年働いた後、ロンドンに戻り兵役を経て王室御用達宝飾店ガラード社に5年間勤める。このガラード時代にパテックの時計を含むジュエリーセットを展示会でモナコ大公妃のグレース(元アメリカの著名女優グレース・ケリー、エルメスのケリーバッグの命名は彼女に由来)に販売した。このジュエリーセットの納品を通じて、バンベリーはパテック社に直接の繋がりを持った。さらに彼の能力に興味を持ったアンリ・スターンとロンドンで面談をするチャンスを得た。これが転機となり1965年3月にパテック社に入社し、アジア・アメリカ市場の営業担当として活躍、さらにフィリップ・スターンのミュージアム・コレクション収集を精力的にサポートした。特に著名な収集品として正史には、創業時の共同経営者であったフランソワ・チャペック製作の掛時計とスイス人俳優ミッシェル・シモンが所有していたリピーター系の懐中時計2点が紹介されている。
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これらの宝物は、大半がオークションハウスのカタログから丹念に探された。収集はまず懐中時計からスタートし、1975年頃からは腕時計もその対象となった。収集の基本はパテックがかつて製作した異なるタイプのムーブメントを集める事だった。また保存状態や所有者の来歴、さらに彫刻・七宝などの特別な装飾なども主要な評価基準とされた。最終的にはフィリップとバンベリーは1000点以上のコレクションを集めている。ちなみにアラン・バンベリーは、拙ブログでほぼテキスト的に熟読している『PATEK PHILIPPE GENEVE』(絶版)の著者の一人である。同書は現在要約している"正史"にも多数の画像等が引用されており、共通の記述も多々ある。

コレクションの充実に伴って、販売店の店内で開催される特別展示会の目玉として出品され、注目を集めると共に新作商品の販売にも大きく寄与した。これはかつて万国博覧会時代に受賞時計が果たした広告塔の役割に通じる物であり、それらのシナジーをフィリップ・スターンはまるでフラッシュバックのように感じていたのかもしれない。
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1979年当時のパテック社の一日当たりの生産量は平均43個であり、数年で倍増されたと言っても非常に少量であり量産化されたとは言えない。1個当たりの製作期間は8ヶ月も掛かっており、著名バイオリンのストラディバリウスのそれよりも長い期間を要した。正に時計師の忍耐、献身、誇りが、世代を超えて継承可能な生きた芸術作品を生み出したと言えよう。

1974年にフィリップ・スターンは『独立宣言』なる小冊子を制作し、販売店に配布した。冊子では家族企業としての独立を再宣言し、長年のパートナーである販売店に安心を与えると同時に、当時の時計業界を取り巻いていたクォーツショックやそれに伴う流通の激変についても躊躇なく大胆に言及し警告している。
前回記事でニコラス・G・ハイエックが巨大な時計コングロマリットであるスウォッチ・グループを築き上げたいきさつに触れたが、その他にネガティブな話として1930年代にスターン兄弟文字盤会社よりも先に、パテック社の買収を試みたジャガー・ルクルト社が筆記具の部品製造に手を出したり、IWCが玩具用のモーターを製造した事などがある。さらにはブライトリング社の1979年の休業とアーネスト・シュナイダー経営のシクラ社へのブランド譲渡。1986年には元サウジアラビア石油相アハマド・ザキ・ヤマニがヴァシュロン・コンスタンタンの全株式の取得を完了。1988年のカルティエによる家族企業ピアジェの買収・・等々の目や耳を塞ぎたくなる様な惨憺たる大嵐が吹き荒れる多難な時代が続いた。

そんな中、パテックの創業150周年である1989年が近づいてきた。フィリップは家族的でアットホームであるが、古風で古めかしい社内体制を、より現代的であったユニバーサル社出身のジェラルド・ブックスの助けを得て、コンピューター・システムの導入などを始めとして近代化する事に乗り出す。だが短期的な財政的ビジョンしか持たない投機的な株主に会社の方向性をゆだねるのは無責任だとして、あくまでも株式上場は望まなかった。これを実現するためは時計を増産して財務状況を盤石にする必要があったが、時代背景もあって、実にゆっくりとしかそれは進められなかった。しかしながらフィリップは経営方式は近代化しても、創業以来続くブランドのポリシーである技術的パフォーマンスと美的完成において世界最高とされる時計を少量製作し、独立を保持し高級な手づくり時計に集中するという意思を変えることは無かった。
時代の変化は顧客層の変化も伴っていた。ブランドに高い認知度を持っていた世襲の裕福層が衰退し、ブランドを知らないが高い購買力を持つ新興な裕福層が台頭してきた。この新しい顧客層に対して流行やトレンドを超えた工業製品ではない何ものかを、パテック フィリップが独自性溢れる時計製作を通じて体現している事を理解させる必要があった。その為にはブランドをより親しみやすくする必要性が有り、それまで品番のみで管理されていたコレクションが、大きく4つのファミリーに分類された。当時の名称とは少し異なるが、今日で言うカラトラバ、ゴールデン・エリプス、ノーチラス・・等々にそれは引き継がれている。アイデンティーを得た各ファミリーは、それぞれにふさわしい戦略的なマーケティング・プランが導入され、より時代に即したブランドへとブラッシュアップが進められた。
そのような施策が成果を上げ始める中、一方では複雑な機械式時計への需要に回復の兆しをフィリップ・スターンは先取りする。他の名門時計ブランドがブランドの売却や譲渡を余儀なくされる真最中にジュー渓谷に、小規模ではあったが新たな複雑機械式時計製作の為の工房を開いた。

1988年9月12日、パテック フィリップは、新作時計の発表では無く、反対に過去に製作した時計の購入についての記者発表をした。60年前に著名なアメリカ人時計コレクターであったジェームス・ウォード・パッカードから発注され16,000USドルで販売した天文表示懐中時計No.198 023を1,300,000USドルで買い戻すと言うとんでもない事がなされた。
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この事は自社の遺産に対して持つ誇りの大きさを示し、翌年の創業150周年の偉大な記念イベントや記念モデル発表に繋がるテーマでもあった。
1989年のパテック フィリップのブランド創業150周年は世界中の販売店がジュネーブに招待された。またキャリバー89を始め様々な記念限定モデルは熱狂的な祝福を受けた。
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キャリバー89(上画像)は5年に及ぶ研究開発期間を含めて完成まで9年の歳月を要した超複雑な傑作天文懐中時計である。裏面に9種類の天文表示を持つだけでなく、28世紀まで調整不要の世紀永久カレンダー、ムーンフェイズ、スプリットセコンドクロノグラフ、GMTを備え、さらには鳴り物系として5本のゴングでミニット・リピーターを始めグランドソヌリ、プティットソヌリ、アラームチャイムを鳴らすと言う化け物時計である。33種類の複雑機能を搭載し、合計1,726個の部品から構成され、4点の限定製作でプロトタイプをパテック フィリップ・ミュージアムで見学可能である。
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上画像左は同じく150周年記念モデルのRef.3969トノーケースのジャンピングアワーウォッチ。RG450個、PT50個の限定製作。製作後にムーブメント・エボーシュ(素材ムーブメント)とツールが破棄され、将来に於いて真の限定製作モデルで有り続ける事が保証された。パテックはこの後同様の手法を用うる記念的な限定モデルを製作する様になる。右画像は25年後の2014年に175周年記念限定モデルとして発表されたRef.5275。PT製175個限定製作はRef.3969の流れを汲んでいると推察される。
他にも150周年記念モデルは多々有るが、個人的に思い入れを持っているのが、腕時計黎明期に思いを馳せる事が出来る軍用オフィサータイプの手巻キャリバー215を搭載したRef.3960モデルである。
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当時は、実家の時計家業を継ぐ前の時代で実父が経営していた百貨店テナント数店舗でパテックを扱っており、このYGバージョンの限定モデルを5本仕入れ、4本を販売したが何故か1本が中々旅立てずにいた為に、めったに自分では時計を買わない親父が珍しく購入し、ずっと手元にあって使われていなかったもの(上画像)を、2000年頃に無理やり奪い取った経緯がある。購入当時の価格は語呂合わせもあったらしく、たった150万円(消費税導入前)だった。尚、箱は有るが時計に付属していたはずの小冊子の行方は不明である。実に惜しい!しかし、もし購入可能だったのなら限定数150本のWGか、50本のPTにしておいて欲しかった。YGは限定本数が2000本とパテックにしては多い為か、現在のプレミアはそれ程でも無い。

1989年は、ヴィンテージウォッチのオークション市場にも大きな変革がもたらされた。4月9日にジュネーブのホテル・デ・ベルグでオークショナ―のオズワルド・パトリッジが開催した『パテック フィリップの芸術(THE ART OF PATEK PHILIPPE Legendary Watches)』は初めて単一のブランドのオークションであった。300点以上の時計が出品され、合計落札額が驚異的な1,510万USドルとなった。最高落札価格をつけたモデルはキャリバー89で320万USドルで、合計落札価格の1/5以上を占めていた。尚、当時の日本は平成元年でバブルの最盛期であり、かなりの円高(1USドル120~140円)であった。仮に130円として試算すると当時の価格で総落札合計額は19億6,300万円となり、キャリバー89は4億1,600万円で落札された事に成る。
オズワルド・パトリッジ主催のオークションハウスは、後にアンティコルム(Antiquorum) としてよく知られるようになる。パテック フィリップの単一ブランドオークションの大成功を機に、1991年ブレゲ、1994年ヴァシュロン・コンスタンタンと単一ブランドのテーマ・オークションが開催される事となった。
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大きな関心を集めたイベントは、他にもあってパテック社自身が1989年4月から9月の半年の間にジュネーブ時計七宝博物館の2階フロアを借り切って、アラン・バンベリーの企画・運営によって開催された展示会である。会場が手狭だった為に収集品の約半分である433点の展示となったが、期間中6万人を動員する人気イベントとなった。これらのオークションや展示会がもたらした効果は絶大で、それまで販売店があまり積極的な興味を示さなかった150周年記念モデルの人気が高騰する事となった。またそれ以前には無かった"時計を収集品として購入する"という新しい概念を生んだのである。
後にニューヨークのヘンリー・スターン・ウォッチ・エージェンシー社長となるハンク・エーデルマンは「創業150周年はコンプリケーティッド・ウォッチの魅力を広げた」と語る。それは彼らのビジネスを前進させる明確な方向性であり、大量生産による販売拡大ではなく、製作が困難で高付加価値を持つ高価な時計を開発製作する事であった。言いかえれば複雑であっても消費者が高く評価する芸術的な時計作りが、パテック社の独立を維持しながらの発展に大きく寄与する道だと判明した事に他ならない。

1989年当時の同社の社員数は、まだ319名。しかし複雑な機械式時計の復活を確信したフィリップ・スターンは、偉大なる未来を予想していた。「私は可能性を感じる事ができました。1989年、パテック フィリップは真に生まれ変わったのです」

文責・撮影:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス・フォークス)
PATEK PHILIPPE GENEVE Wristwatches (Martin Huber & Alan Banbery)
パテック フィリップ創業175周年記念(2014年)

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