8月にはとうとう記事を一度も投稿出来なかった。酷暑のせいか、新型コロナ禍のせいか?はたまたネタ切れか?まあ全部と言えば、全部。言い訳にしかならないが"ストレスフルな夏"であったのは間違いない。おっかなびっくりの出張や面会、外食を再開し始めるも、扉は常に半開き状態で危険と背中合わせを感じつつも天照大御神のように閉じ籠り続ける事も無理が有る。奈良県もクラスターが次々発生し死者8名、累計感染者は500名を超えてしまった。当たり前の対策をしつつ生き残りは運次第という諦観も覚悟するしかないのか・・
6月にSSカラトラバ限定モデル、7月にはグランド・コンプリケーション3モデルの新製品が発表された今年のパテック。てっきり8月にもコンプリケーションかカラトラバ辺りを何点かリリースすると思いきや、その後音沙汰なし。そんな折に入荷して来たのが2019年ニューモデルの手巻クロノグラフRef.5172G。この時計は残念ながら昨年度の入荷予定が見送られた1本。入荷予定新製品が見送られるのは結構珍しいケース。勿論お客様の注文が紐付いていてが原則だけれど。と言う訳で当店初入荷の実機を撮影してご紹介の運びとなった。
パテック フィリップは決してクロノグラフ時計の専業メーカーではない。しかし歴史的にも偉大なクロノグラフを輩出してきた事実があり、中途半端なクロノグラフ専業を謳っているブランドより重厚なアーカイブを持っている。さらに言えば1920年頃から腕時計に搭載された主要な複雑機構(クロノグラフ、ミニット・リピーター、永久カレンダー、ワールドタイム等)の全てに於いて業界のパイオニアであり常にトップランナーとして走り続けてきたと言っても過言ではない。敢えて外したトゥールビヨンについてはあまり過去に製作例が無い様に思う。現行ラインナップに於いてもトゥールビヨン搭載モデルは現行3モデルに今年7月発表の5303Rが加わったに過ぎない。推察するにパテックはトゥールビヨンそのものにさほどの有効性を感じていない様に思う。
トゥールビヨンは1800年前後に仏の天才時計師アブラアム=ルイ・ブレゲが発明したとされ、機械式時計の精度安定を計る為にテンプをキャリッジと呼ばれる籠に収めて一定時間に一定速度で籠自体を回転運動させるという構造になっている。当時は懐中時計時代であり、その携帯精度の平準化には有効とされ、時計開発の歴史を何十年も早めた発見とされている。しかし常に一定の姿勢で携帯されるポケットウォッチと異なり、腕時計は手首に巻く特性上から様々なポジションを取り易いので、コストを掛けてテンプを回転させなくても精度はそもそも平準化しやすい。現代では各ブランドがその技術的優位性を誇示するために製作されている面がある。
ところで他ブランドのトゥールビヨン・キャリッジは通常ダイアル側にオープンワーク仕様で見せる構造になっている。確かに繊細で美しいキャリッジが優雅に回転する様は見栄えがある。だがパテックは伝統的に紫外線によるオイル劣化を嫌って裏蓋側からしか見えない様にしてきた。雲上機構であるトゥールビヨンでさえも見た目よりも実用性を優先するパテックらしい配慮だ。尚、今年発表(正確には昨年のシンガポール・グランド・エキジビションが初出)の5303Rは時計の裏表両面がオープン・アーキテクチャー(全面スケルトン)の為に、敢えて見栄えのする表側にキャリッジが配置された知る限りパテックでは初めての試みだが、サファイアクリスタルに無反射コートならぬ紫外線防止加工を施すというこれまた初耳の対策で悪影響を防いでいる。
さて、脱線はこのくらいにして本題のクロノグラフに話を戻しヒストリーを少しおさらいしてみたい。パテックが手巻クロノグラフをジュー峡谷のヴィクトラン・ピゲからエボーシュ供給を受けて造り始めたのが1920年代半ばである。当時はキャリバーも完成品も名称や品番が無くそれぞれ固有番号で管理されていた。またリューズ1本で操作をするシングルプッシュ方式が採られていた。さぞや良く壊れたのではないかと思われる。1932年のスターン・ファミリーへの事業継承を経て1934年9月には、ジュー峡谷のクロノグラフ専門エボーシュのヴァルジュ―社の23VZをベースにパテック向けにカスタマイズされた専用キャリバー13'''搭載の名機Ref.130が登場している。ツープッシュボタン型は遅くとも1936年製造機には登場している。今回の紹介モデル5172のルーツと言えよう。
因みに当時からパテックのクロノグラフに共通する仕様であるコラムホイールとそのカバーであるシャポーが採用されていた。このキャリバーは供給が途絶えた3年後の1985年まで搭載され続けた"超"の着くロングライフなエンジンだった。様々な搭載機の中で特に著名でアンティークウオッチ市場で高評価なのが永久カレンダーを組み合わせたRef.1518(1941-1950)とRef.2499系(1951-1985)である。
それ以降の後継キャリバーには同じくジュー峡谷のヌーベル・レマニア社が選ばれ、同社のCal.2320をパテック社自身が大幅にカスタマイズしたCH 27-70が誕生した。これも名機の誉れが高く今現在も追い求められる人気モデルを続出した。やはり永久カレンダーを併せ持ったRef.3970(1986-2004)とその後継機Ref.5970(2004-2011)。そしてシンプルなツーカウンターとヴィンテージテイストの表情を持ち大ぶりなケースを纏ったRef.5070(1998-2009)は記憶に新しい。2000年のYGモデルがたったの税別410万円。でも当時の高級時計相場からすればかなり高目だったが絶対に買っておくべきモデルだった。参考に出来そうな後継機5170( 製造中止モデル)は倍以上の価格設定になっていた。こちらは5172に至るシンプルな手巻クロノクロノグラフの中継ぎ機種的な存在だ。
そして2009年まで四半世紀に渡り搭載され続けたCH 27-70だが、時代の流れでスウォッチ・グループ傘下に組み込まれていたヌーベル・レマニア社はグループ外へのエボーシュ供給を絶たざるを得ない圧力が掛けられていた。その為に2000年頃からパテック社はクロノグラフの完全マニュファクチュール化計画を進めて2005年には、量産は効かないが古典的な手巻極薄スプリット秒針・クロノグラフ・キャリバーCHR 27-525 PSをリリースした。代表的搭載モデルはRef.5959Pだろう。さらに2006年には実用性に溢れシリーズ生産(量産タイプ)に向く現代的な垂直クラッチを搭載した自動巻フライバック・クロノグラフ・キャリバーCH 28-520系を発表。年次カレンダーがカップリングされた初号機Ref.5960Pは、市場でプレミア価格が横行してしまう大ヒットモデルとなった。14年が経つがつい先日の様に克明に覚えている。
そして2009年秋にはマニュファクチュール化プロジェクトの総仕上げとなる第三段として手巻のシンプルクロノグラフ・キャリバーCH 29-535 PSが初搭載されたのは、クラシカルな婦人用クッションケースのRef.7071Rだった。同キャリバー搭載のメンズモデルとしては翌年春のバーゼルワールドで正当なラウンドシェイプでRef.5170Jが発表された。幾つかの素材・顔で製造された5170は2019年春に生産中止となり、後継機として今回紹介の5172Gが、その任を引き継いだ次第である。一気のおさらい、あぁ~しんど!
兄貴分であったRef.5170との違いは多々あるが、最も顕著なのはケースと風防ガラスのデザインだろう。段差付きの特徴的なラグは1940年代半ばから60年代にかけて採用されていた歴史がある。最近で2017年発表の永久カレンダーRef.5320Gで久々に採用され、昨年2019年には今回紹介のクロノグラフの他にカラトラバ・ウィークリー・カレンダーRef.5212Aでも採用されている。ただ5212のケースはラグの段差が1段であり、ケースサイドも上画像の様にエッジィな出隅と入隅を伴った出っ張りは無く、少し官能的ともいえるシンプルなカーブ状に仕上げられている。この点永久カレンダー5320はケース形状的に5172とはほぼ同じである。ボックス状のヴィンテージ感漂うサファイア・ガラスが少し特殊な手法でケースに固定されるのは3モデル共通である。ケースサイドの鏡面仕上げは素晴らしい為に平滑面には顔を全く歪まずに映す事が可能だ。
放射状にギョーシェ装飾された菊の御紋の様な丸形プッシュボタンは、同じエンジンを積む婦人用クロノグラフRef.7150/250が一年先んじて2018年に採用している。デザイン的な出自を探すと1940年代に製造された手巻クロノグラフRef.1463のプッシュボタンに酷似した意匠が見られる。ただラグは一般的な形状であって段差などは無い。
パテックのデザイン的アーカイブの活用には2通りあってクンロクやクロノメトロ・ゴンドーロの様に、ほぼオリジナルモデルのデザインを忠実にトレースする場合が一つ。その他に今回の様に過去採用してきた様々なディティールを組合せる事で新味を作ってしまうやり方が有る。前者では歴史的デザインそのものが売りであり誰もが復刻モデルと認識出来る。後者はアンティーク・パテック愛好家以外の現代パテック・コレクターには全くの新規意匠と映る。温故知新とも言えるし、実に巧妙で賢いが、分厚いアーカイブが存在し、尚且つブランドとして途切れなかった歴史に守られた資料。さらに自ら重厚なミュージアムを運営継続できる膨大なコレクションの収集があってこそ可能な事である。
文字盤の構成も永久カレンダー5320に共通部分が多い。やや大振りで正対したアラビア数字の植字されたWG製インデックスと注射針形状と呼ばれる太目のWG製時分針にはたっぷりと夜光塗料(一般的にはスーパールミノバと呼ばれる蓄光塗料、パテックは敢えて夜光と表示)が塗布されカジュアルでスポーティな印象を与えている。ダイアルのベースはニス塗装によるブルー文字盤となっており、カラトラバ・パイロット・トラベルタイムRef.5524Gと同じ化粧がなされている。
もう少し文字盤のディティールがそこはかとなく写り込んで欲しかったが、ただの夜光画像になってしまった。最近ロレックス社の公式インスタグラムを見ていたら、9/3投稿のオイスターパーペチュアル画像に素晴らしい文字盤と蓄光インデックスの競演画像があって感動した。ともかく画像が凄まじく美しい。実物以上に仕上がっているのが良いのか悪いのか。翻って基本パテックはカタログ等印刷物の仕上がりは絶対に現物を超えない。カタログ画像よりはずっと良い公式インスタ画像でもそれは意識されている様な気がする。まるで醜いアヒルを狙っているのかと思ってしまう。しかしまあ稚拙な画像を掲載してしまった。
因みにパテックはじめ現代時計で主流となっている蓄光というのは、光源によって蓄えられた光を発光するが時間と共に照度は弱くなり明け方にはほぼ光れない状態になる。1900年代初頭から1990年以前迄は自発光する夜光塗料が時計には主に使われていた。著名なのは軍用として開発されたパネライのオリジナル・ラジオミールで放射線物質のラジウムを含む塗料がその命名の所以だ。後期にはトリチウム等を含有した塗料が主になる。ヴィンテージ・ロレックスのダイアル6時辺りの"T<25"の表記などが有名。しかし今現在は特殊な透明ケース等に閉じ込めて放射線が洩れない構造にしなければ一切使用できなくなっている。現在この特殊方式に則って採用しているのはボールウオッチやルミノックス等である。夜光は放射性物質の長い半減期の間は昼夜関係なく常に光っている働き者だ。しかしその基本照度は低く、優れた蓄光塗料の最高輝度にはとてもかなわない。実際には一寸先が闇という漆黒でないと見づらい。まあ昔の夜は今よりずっと暗かったはずだ。ミニット・リピーターも実用性があったに違いない。
さて、今回も脱線しまくりのRef.5172G紹介だが、ストラップにも触れないわけにゆかない。2015年にカラトラバ・パイロット・トラベルタイムRef.5524まで滅多に採用される事が無かったパテックでのカーフスキン・ストラップ仕様。昨年度からは5172に加えて5520や5212など複数のモデルに採用されるようになった。5172の文字盤のニス塗装仕上げに質感・色共にマッチした表面感を出したブルーストラップによって、前身機の5170には全く無かったカジュアルな印象が全面に出て来た。ケース径と厚みが若干増してラグ巾が1mm絞られたのもカジュアル指向だ。ブルーデニムにTシャツでも余裕で大丈夫だろう。制服指向のかっちりしたクラシックなスーツが不振を極めており、ビジネスシーンでの服装のカジュアル化が鮮明だ。コロナ禍と酷暑でそれは益々加速されたようにも思う。隆盛を極めるラグスポ以外のクラシカルで保守的なシリーズの時計にも、カジュアルな装いを用意し始めた老舗メゾンのパテック フィリップの今後に大いに期待したい。そんなカラトラバが今年は出てくる気がしていたのに・・
Ref.5172G-001
ケース径:41mm ケース厚:11.45mm ラグ×美錠幅:20×16mm
防水:3気圧
ケースバリエーション:WGのみ
文字盤:ニス塗装のブルー 夜光塗料塗布したゴールド植字アラビアインデックス
針:夜光塗料塗布の18金時分針
ストラップ:手縫いブルーカーフスキン
バックル:18金フォールデイング(Fold-over-clasp)
価格:お問い合わせください
いつ、どの角度から見ても惚れ惚れする美しい手巻クロノグラフ・ムーブメント。しかし必要十分にしてやり過ぎていない仕上げが施されたがっしりした受けとレバー類からは、繊細ではなく骨太で質実剛健な印象を受ける。実用性に溢れた頼もしいエンジンである。パテックの中ではロングパワーリザーブと言える最小65時間駆動も嬉しい。
また現在手巻クロノグラフ・モデルはカタログ上では、シリーズ生産が原則のコンプリケーション・カテゴリーに分類されているが、このキャリバーの製作方法はグランド・コンプリケーション並みの熟練技術者による2度組みが採用されている。四段時代に歴戦の上段者を撃破し続けた藤井聡太現二冠の様なポテンシャルタップリの素晴らしいムーブメント。パテックファンの所有欲を掻き立てるエンジンでもある。
Caliber CH 29-535 PS:コラムホイール搭載手巻クロノグラフ・ムーブメント
直径:29.6mm 厚み:5.35mm 部品点数:270個 石数:33個 受け:11枚
パワーリザーブ:最小65時間(クロノグラフ非作動時)クロノグラフ作動中は58時間
テンプ:ジャイロマックス 髭ゼンマイ:ブレゲ巻上ヒゲ
振動数:28,800振動
PATEK PHILIPPE INTERNATONAL MAGAZINE Vol.Ⅱ No.08 Vol.Ⅲ No.11 Vol.Ⅳ No.09
COLLECTING PATEK PHILIPPE WRIST WATCHES Vol.Ⅰ,Ⅱ(Osvaldo Patrizzi他)
文責、撮影:乾 画像修正:藤本