ミニット・リピーターを分かり易く単純には言えないが、乱暴強引に言うなら"ゼンマイ仕掛けの物凄く精工なからくり人形か、複雑極まりないオルゴール"辺りになろうか。時計を運針する主ゼンマイとは別のリピーター機構専用のゼンマイを時計左側(9時側)側面に備えられたスライドレバーを慎重に下から上に操作して、現在時刻を高音と低音の二音階の組合せで表現するという代物である。
前編でも触れたが、時(Hour)は低音、四分の一時間(15分・Quarter)は高音と低音の連続音、分(Minute)は高音という構成だ。一番鳴る数が少なくって短いのは1時ジャストで、低音一回のみ。数が多く最長時間を要するのが、12時59分で低音12回・高低連続音3回(打刻数は6回)・高音14回となり総打刻数は32回にもなる。そして18秒以内に32回を打ち終えなくてはならないと言う自社ルールがあり、もったいぶった記事タイトルの言われは此処にある。僅か1分の違いで関東風の一本締め!、はたまた賑やかな三本締めすら上回る大太鼓と小太鼓のチョッとしたマーチングバンド風にすらなる。"地獄と天国"では例えが悪いが、特に人に聴いて貰う際には或る程度以上の鳴り数が欲しいのがオーナーの心理。多くの場合12時50分以降に時刻をセットする事が殆どだ。「シーンと」静まりかえる空間に電子音では絶対に表現不可能な暖かく味の或るアコースティックな2音階のシンフォニーが響いてゆく。そして大抵がアンコールリクエストの喝采を浴びて、ミニットは連続演奏を繰り返す羽目になり易い。しかし時計は運針しているのでクライマックスの12時59分が過ぎてさらに期待感が増せども、「ティン!」休養を要求するかの様な1時のワンゴングでコンサートは閉幕となる。
尚、ミニット・リピーター機構の保護の為に演奏と演奏の間には必ず30秒以上の休養のインターバルを取らなければならない。さらに言えば30秒のレストを遵守しても頻繁(どの程度か決まりは無いが・・)に鳴らし過ぎるのはご法度だ。日本の実例で納品初日に嬉しさのあまり演奏を繰り返しすぎて、ドック入りになったケースも有ったと聞いた。でも、その気持ちは実に良く解るナァ。
特に今回納品した5178G-001等は見た目が普通の時計過ぎるので、想像を超えた深淵なるシンフォニーを奏でるという意外性をついつい披露したくなる。痛いほど、そのお気持ち理解できる。でもストラディバリウスも一日中休みなしにこき使われてはご機嫌斜めになりかねない。ほどほどに節度を持って、グッと我慢してこらえて頂きたい。
さて同一の職人が手作りする木製のヴァイオリンの音色が全て微妙に異なる様に、素材が金属であっても同一品番のミニットも同じ音色にはまずならない。同じ18金ケース同士であってもイエロー・ローズ・ホワイトで微妙に音は異なるし、プラチナは誰が聞いても硬い音質となる。でもティエリー社長はプラチナを好んでいるし、フィリップ名誉会長は18金ローズゴールドがお好みで、結局のところ全ての個体で音は異なり、それは好みの世界となるが、購入に際して複数の個体を聴き比べて選ぶという事は出来ない。その為に全個体に対して非常に厳しいレベルでのティエリー・スターン社長の試聴テストがなされている訳だ。自身の視聴経験に限って言えば「これはチョッと・・」と言う個体は皆無で、複数モデルを同時に聴き比べる際に、ケースが小ぶりな婦人用なのに音量が豊かでビックリと言う様な意外性などはあっても、良し悪しと言う様なレベルで悩む様な個体はそもそも無く、あくまでも好みの強弱がどの位かだと思う。しかし、それも複数個のミニットを所有し試聴歴をかなり積んだ方という前提で有って、パテックのミニットを初めて購入する際に当てが外れて落胆し、後悔する事などあり得ない様に思う。尚、パテック公式HP内カタログページ下部の"チャイムを聴く"からネット経由で(なんちゃって)試聴も可能である。
なにゆえにパテックのミニット・リピーターがそれほど優秀なのか。それは前編でも触れた1900年代後半の極僅かの期間を例外として、創業当初から途切れる事なくミニット・リピーターを製造し続けてきた唯一と言ってよいヒストリーを持つブランドという事がベースになっている。その基盤の上に1980年代から現名誉会長フィリップ・スターンの大英断によって現代的な技術の開発や音質の管理手法の採用などを積み重ねる事で、他ブランドを寄せ付けない今日の重厚かつ孤高なミニット・リピーター王国が着実に作られた。
その技術革新の一例を挙げると、遠心ガバナーの開発採用がある。現代ミニット初号機であるキャリバー 89以前の従来型ミニット最大の課題をパテックは、リピーター打刻時にゴングの制御装置が発生する雑音に有るとした。想像して頂ける酷似音としては、現在でも一部のブランドで製造されているアラームウオッチの音である。具体的にはジャガー・ルクルトのメモボックスであり、歴代アメリカ大統領が好んだという逸話(具体的にどなたが愛用したかは未調査)の有るレビュー・トーメン(バルカンとのブランド名称も有ったりしたような・・)のクリケット(コオロギの英名)等がある。テキスト本によれば19世紀末に特許申請された無音の制御装置があり低知名度ブランドが低価格ミニットに採用していたが、装置自体がかさ張るという致命的な欠点があって、著名な高級ブランドでは採用される事が無かった。その為に長きに渡り、オークションに出品される無音のミニットは疑いの目で見られると言う奇妙な状況が有ったが、新機軸の無音化装置"遠心ガバナー"を搭載したミニット・リピーターの初出であったキャリバー 89が、1989年にその奇妙な概念を覆した。
ミニット・リピーター機構の説明が難解なのと同様に遠心ガバナーの説明も難しい。正直に言えば、完全に理解できていないのが本音だ。言えるのはゼンマイのパワーでゴングを叩くハンマーの打つ間隔をゼンマイトルクの減衰に関わらず一定に保つ無音の制御機構である。
上画像は2020年新作のRef.6301Pの画像を参考に拝借、右側の2つのおたまじゃくしが追いかけっこしているようなのが遠心ガバナー。従来のミニット・リピーターではカラトラバ十字の装飾で隠されていたが、この最新作では存分にその動きを見ることができる。
(個人的には微妙と思いながらも)判り易い例としてはフィギュアスケートのスピンの演技が挙げられる。スピンの最初にスケーターは両手を優雅に伸ばしてゆったりと回転を始めるが、徐々に両腕が折り畳まれるにつれて回転速度が上がってゆく。最後はチョッピリ可哀そうな程に窮屈に両腕を体に密着させたり、頭の真上でこれでもかと密着させて突き上げ体をともかく棒状にする事で、常人なら目が廻って転倒確実な駒廻しさながらの高速回転に加速して行くがなぜかニッコリと微笑んで突如ピタリとストップしスピン演技は終了する。全スケーターが微笑むかは知らない。羽生結弦選手がどうかも知らない。しかし間違いなく一度もサボらず浅田真央ちゃんは微笑んでくれた。見る側からは最高回転時にパワフルさを感じるが、実際には緩やかにスピンし始める時の回転トルクが最大であり、その後にスケーター自身は追加のトルクを加える事は不可能なので、氷と空気の摩擦で減ずる回転トルクを両腕を縮める事で回転中心軸にウェイトを集中させ慣性モーメントを減らして回転速度を調達している仕組みなのだ。だから縮め切って回転が落ち始める直前に"ニコッ、パッ!と"急ブレーキを掛けるわけだ。う~ん、書いていてやっぱり判り易いとは言えず難解ではある。ええぃ!ともかく作動中のミニット・リピーターの中では浅田真央ちゃんや羽生結弦選手がともかく頑張ってスピンをしまくっているので、くれぐれも無理をさせずに労わってやって欲しいわけですョ。
パテックが購入者に出荷する全てのミニットのサウンドは単に録音されるだけでは無く、様々な観点から計測され記録される。或るものは数値化されて記録される。このサウンドデーターの保存は、分解掃除等のメンテナンス目的でスイス・パテック社にドック入りした際に初出荷時のリピーター音を出来うる限り忠実に再現する為に必要不可欠な工程となっている。
この随分と科学的な手法も現代版ミニット・リピーターの開発設計が進められた1980年代にローザンヌ連邦工科大学(スイスの全時計ブランド御用達ではないかと思われるほど他との協業を聞かない)との共同研究の成果であり、ずっと以前(1960年代より前)のコオロギが頑張っていたアンティークな個体には音の再現性は求めようもない。しかし、ティエリーが19歳でパテックに入社したばかりの頃からミニット・リピーターの試聴訓練はフィリップから相伝され始め、一人前となってからは親子で、そして今現在はティエリー・スターン社長がその任を背負っている。この出荷前試聴テスト自体も科学的な音の管理手法の進化と共にブラッシュアップしている様で、しっかり科学的なふるいにパスした個体のみ試聴すれば良いという事なのだろう。但し、最も重要なのは科学的なサポートは1989年以降の現代的な生産に多大に寄与してきたのは確かだが、その微妙に過ぎる音色を調整出来るのは経験豊かな一握りの職人の耳と手の技で有って将来もロボットが取って代わる事は無さそうだし、どこまでも最終判定はアナログな人間の耳によって良否が決定され続けてゆくのだろう。否、それ以外に決定方法は無いという事だろう。パテックがミニットに於いて大切にしているのが"ぬくもりのある音"だが、確かにぬくもりを創り出したり判定するのは機械には不可能だろう。
さてテキスト本からの抜粋ダイジェストのつもりで書き始めた本稿だが、覚悟していた奥深さの質・量ともに半端ではない。例えばスライドピースの操作感一つとってもスターンファミリーが理想にしている"バターを切る様な柔らかさ"とはポルシェのマニュアルシフトフィールで有名な"バターにナイフ!"との共鳴を感じ、一流は一流と相通じるのだなァ。という具合にアレを書けば次にコレにも触れずにはおられず、正直際限が無い。もっと言えばテキスト本でさえもミニットの全てを書き切れているわけでは無いだろう。知れば知るほど底なしの井戸の様に興味が湧き、魅了される時計を超えた存在。それがパテックのミニット・リピーターだと言う事を書き進む程に知らされた。到底この交響曲は第二楽章では終わりそうに無く『未完成』へとタイトル変更止む無しとなりそうだ。すみません。やっぱりこれ以上はMinute Repeaterをご一読いただくのをお勧めいたします。かと言って読み切るのは案外簡単で、面白いゆえに疲れも無いと言う何とも不思議な書物です。でも深い・・
なんでこんなにミニット・リピーターは解説困難なのだろう。きっとそれは単なる時計という時を正確に刻めば良いという世界だけでは無く、音楽同様に音の芸術域に立ち入って行かねばならないからだろう。似た経験はレア・ハンドクラフトの一つエナメル装飾でも感じた絵画同様のアート領域の説明が困難を極めたのと同質だ。ただ必要な時を音で知らせるだけなら確かに時計の延長でしかないが、芸術的な音そのものを主役として聴き取る楽しみが主目的となっているリピーター系鳴り物は、レア・ハンドクラフトとひっくるめてタイムピースと呼ぶよりアートピースと呼ぶのが相応しいと思う。そう考えればゴッホやフェルメール、琳派や北斎を文字で表現説明する事と同じく無理がありそうな事に納得できる。
自らは手の届かぬ憧れのグランド・コンプリケーションであるミニットの実機納品が起稿動機なので本来はRef.5178そのものをもっとクローズアップせねばならないが、やはり実際に納品立ち合いが出来ず、撮影は勿論、触れる事すら叶わなかった為なのか、詳細が書けません。不器用な事この上ない。ご勘弁。ご容赦。本稿は単なるPPミニットの触りになってしまった。でも、そんなに遠く無いいつの日か奈良でご対面する事が出来れば、『再挑戦、実機編5178G』有るかなァ。一応スペックだけはいつも通りに・・
Ref.5178G-001
ケース径:40mm ケース厚:10.53mm 防水:非防水(湿気・埃にのみ対処)
ケースバリエーション:WG
文字盤:クリーム色七宝文字盤、ゴールド植字ブレゲ数字
裏蓋:サファイヤクリスタル・バックと通常のケースバックが共に付属
ストラップ:ブリリアント・チョコレート・ブラウンのハンドステッチ・アリゲーター・バンド
バックル:折り畳み式バックル
価格:お問い合わせください
Caliber R 27 PS
直径:28mm 厚み:5.05mm 部品点数:342個 石数:39個
パワーリザーブ:最小43時間~最大48時間
テンプ:ジャイロマックス 髭ゼンマイ:Spiromax®(Silinvar®製)
振動数:21,600振動
ローター:22金偏心マイクロローター反時計廻り片方向巻上(裏蓋側より)
文責:乾 画像:パテック フィリップ
『Minute Repeater』Jean Philippe Arm, Tomas Lips 共著 2012年『邦題:ミニット・リピーター』小金井良夫 翻訳