昨年は短い秋が素早く過ぎ去って、早い冬が始まった。この国はいつの間にか四季では無くて、厳しく長い夏と冬の狭間に駆け足の様な春と秋が申し訳程度に顔を出す様になってしまった。そんな貴重な"秋"の新製品第二段。ちんたら書いていたら厳寒期になり、いつの間にやら年さえ越えてしまった。今回はクロノグラフを共通項として4本のグランドを含むコンプリケーションのご紹介。発進と停止機構で経過時間を計る平たく言えばストップウォッチという代表的な複雑時計機能に関して、パテック社は長らく自社ではなく敢えて信頼できるエボーシュ(ムーブメント供給専門会社)から手巻のクロノグラフ・ムーブメントを調達してきた。詳しくは過去記事でも紹介したが、1900年前半はヴィクトラン・ピゲ、1929年以降はバルジュー社、1986年からはヌーベル・レマニア社から特別で専用のクロノグラフ・キャリバーの供給を2011年まで約100年間に渡って受け続けてきた。そしてクロノグラフに関しては自動巻に手を染める事をパテックは頑なに拒んできた。
しかし1990年代からスイス時計業界内の諸事情で多数の時計メーカーがムーブメントの自社開発と生産を進める事になった。この諸事情とその影響を詳しく書き出すとキリが無いので止めておく。クロノグラフ系キャリバーのみ外部調達していたパテック社も自社製のクロノグラフ・ムーブメントの開発・設計に乗り出し、2005年以降3兄弟とも言えそうな性格の異なる3つのムーブメントを僅か4年間で発表し現在に至っている。今回紹介するクロノグラフ達の搭載キャリバーもその3兄弟全部が使い分けられている。この役割と分担をわきまえたようなキャスティングが大変に心地よい。
7968/300R
アクアノート・ルーチェ《レインボー》クロノグラフは、レディス初の自動巻仕立てのクロノグラフである。アクアノートのメンズでRef.5968なる人気クロノグラフモデルが既にあって、品番頭の5がレディス御用達"7"始まりに変更となっている。時計そのものは全く同じでクロノ3兄弟の内、2006年発表の次男のCH 28-520が搭載されている。フライバック方式と呼ばれるクロノグラフ作動時に一旦ストップする事なしにいきなりリセットし、そのリセットボタンのリリースと同時に再スタートさせる特別なクロノグラフ機能が採用されている。このクロノグラフ作動のオン・オフを担うのは現代的な垂直クラッチと呼ばれる方式で、伝達時のトルクロスが非常に軽減されておりクロノ秒針を常時作動させて時計秒針として使用する事も出来る。センター・フルローター形式の自動巻仕様の実に先進的で実用性抜群のエンジンだ。現行クロノグラフ・ラインナップで最も多用されているキャリバーでもある。
でもこんな油臭い話はこの時計には似合わない。さてさて"レインボー"なる宝飾時計の装飾表現を普及させたのは恐らくロレックスだろう。ミレニアムイヤーだった2000年より前か後かも定かでは無いが、確かクロノグラフのレジェンドである"コスモグラフデイトナ"で初採用だった気がする。でもその後追いで様々な他ブランドが、次々というレベルでは採用していない気がする中で、パテックでの商品化は個人的に意外で少し違和感もある。ベゼルへのジェムセッティングは内側ダイヤと外側マルチカラー・サファイヤの2重取り巻きで、デイトナの一重の大胆なグラデーション・サファイヤ使いとはさすがに一線を隔している。インデックスはアクアノートお馴染みのアラビア数字18金植字に加えて、短いバーインデックスがマルチカラーのサファイヤバゲットカット仕様となっている。時計の性格からカレンダーの不採用は妥当だろう。デフォルトの真っ赤なストラップに加えて2色のコンポジット(ラバー)ストラップが付属していて公式HPカタログで確認可能だ。良いお値段なのだけれど発表直後からお問い合わせは多い。しかし立ち上がりの入荷数が極めて少ないようで初入荷はいつの事やらと覚悟している。
5395A-001
従来からラインナップされていたワールドタイム・クロノグラフRef.5930と時計的には全く同じで兄弟モデルである。しかしケースは新規開発で少し1.5mm大きく、わずかに0.11mm薄い。注目すべきは何と言っても素材がステンレスである事で、昨今のパテックが地味?に仕掛けているトレンドに連なるとても気になるニューフェイスである。
ダイアルカラーはローズゴールドめっきのオパーリンに《カーボン》モチーフとされている。この何とも表現しずらいモダンなヴィンテージローズとも、光沢感タップリなサーモンピンク、はたまたオレンジっぽいピンクなどと言葉遊びを繰り出しても伝えようが無い。さほどに複雑な色目をモニターの画像だけで想像出来ようもないのでネタバレすれば、幸運にも現物を手に取って凝視する機会を得たからなのだ。ところで文字盤中央部の一松格子文様(《カーボン》と表現されている)モチーフを見た瞬間に思い出されたのは2019年秋に落成したパテック社の最新工場PP6を記念して製作されたSSカラトラバの記念限定モデルRef.6007である。てっきりこれが初出と思っていた。とこらが或るWEB記事で気付かされたが、このモチーフは2013年の5004Tが初出、さらに2017年の5208Tにも既に採用されていた。この2モデルは奇数年度に開催されるチャリティーオークション『オンリーウォッチ』出品用に特別製作されるユニークピース(一点モノ)であり、通常パテックが採用しない素材であるチタンがオンリーウォッチには好んで用いられている。尚、2022年の今年は偶数年で別のオークション『チルドレンアクション』に永久カレンダー・クロノグラフRef.5270のやっぱりチタン製が寄贈出品され11月7日に970万スイスフラン(同日レート買い換算146.63円:約14億2,231万円)で落札されている。一点モノに販売時価も付けようが無いが、全く個人的にカタログ掲載モデル的に見積もればプラチナ製のRef.5270P同レベルの2000万円台後半、仮に3000万円として50倍近いとんでもないプレミアプライス、モンスター井上もビックリ!というところか。
寄り道、脱線から話を戻そう。90度角度を変えて筋目ギョーシェ彫りされたタイル状格子モチーフの演出はかなり凄い。公式HPの画像ではイマイチそこが伝わって来ない。例えば微妙な角度で文字盤を上から俯瞰すると全く市松が消滅し、まるで平やすりの表面様にしか見えなかったりする。その状態ではダイアル外周のシティリングは光沢を発して輝き、内側の平やすり部は完全なマット状に沈むが、12時側のブランドロゴの転写スペースと6時側のクロノグラフ30分計インダイアル部は艶めき燦然と輝いており、コントラストに惚れ惚れする。これ以上書くと実機編でのネタが無くなるが、ともかくこの時計の魅力は文字盤に尽きる。そして素材がステンレスなので当然軽い。初出の5930はホワイトゴールド、第2世代の現行5930がプラチナなので当たり前に軽いのだけれど、文字盤とカーフストラップのライトウェイトなイメージの色目使いも、特別な軽やかさを5935に与えている気がする。上述のアクアノートルーチェ・クロノグラフと見た目がまったく異なるが、ベースキャリバーは同じでパテック自社製クロノグラフムーブメント第2弾のCH 28-520系にワールドタイムモジュールがトッピングされている。個人的には今回発表の全8モデル中で最もお気に入りの一本だ。
5204G-001
グリーントレンドはまだまだ健在の様である。サボりサボり書いている内に年末が過ぎ新年になってしまったが、全身に渋いオリーブグリーンを纏ったこの超絶グランド・コンプリケーションの発表が、一瞬!咋春だったか、ついこの間の秋だったかのか混乱してしまった。新緑に連なるお色目が春にこそふさわしいと言う先入観のしわざかもしれない。さほどに今春の緑軍団4モデルのインパクトは大きかった。
さてさてグランド・コンプリケーションに於いて品番末尾が"4"で終わるモデルは生産も限られ調達ハードルが非常に高い印象がある。このモデルもその気配が濃厚だ。だが今回もそうであるようにコスメティックチェンジを過去何度も繰り返してきたこの手巻の永久カレンダー・スプリットセコンド・クロノグラフは中々販売がかなわないけれど、しばしば目にする不思議なモデルだ。全てお客様の着用やご持参によるご愛用品を結構な頻度で拝見している。希望小売価格設定モデルではあるので、未設定の時価(P.O.R./Price On Request)モデル達とは生産個数レベルにかなり差が有るのかもしれない。でもご縁が無いナァ。
エンジンは前述の2022年度チャリティーオークションモデル5270Tにも採用されたベースキャリバーCH 29-535系に永久カレンダーモジュールを積み上げるのは同じながら、さらにクロノグラフ部分にスプリットセコンド機構が組み込まれた部品点数496点の超複雑なムーブメントである。実機を見ていないので断言できないが、この緑色は結構渋めで落ち着きが感じられる。スプリットセコンドではないシンプルなクロノグラフに永久カレンダ-が合体したプラチナ素材の現行モデル5270Pの鮮やかな発色のグリーンカラーとは全く異なりそうだ。勿論好き好きであって、選択技が増えた事は喜ばしい。ただし価格は18金であってもスプリットセコンドバージョンが約1.5倍とお値段も"超"がつく。
5373P-001
最後の一本は非常に珍しいレフティ用の手巻クロノグラフである。現行のパテックとして左利き専用モデルは唯一だし、他ブランドを見渡してもたまにシンプルな3針タイプでのレフティは稀に散見されるもクロノグラフは記憶にない。パッと見た感じは上述の5204の色違い?、でもよく見ればダイアルのレイアウトは天地が逆さまだったり、カレンダー表示の窓位置が異なったり、プッシュボタン数が違ったりと顔つきの似て非なる他人同士である。
素材はプラチナでケース側面の形状が独特、ラグからラグ迄全体が一段下がるように彫り込まれている。今春発表の新作で画期的な10分の1秒計測で話題を集めたクロノグラフRef.5470Pを始め時価カテゴリーな超複雑モデルでは結構おなじみのデザインだ。搭載エンジンは2005年発表のクロノグラフムーブメントとしては初めて100%自社開発・製造(マニュファクチュール)された世界最薄コラムホイール式スプリット秒針クロノグラフキャリバーCHR 27-525系に永久カレンダーが組込まれている。従来からこのムーブメントは右利き用モデルとしてRef.5372などに積まれてきた実績が有るのだが、今回は半回転180度グルっと廻し込んでサウスポー仕様として5373に搭載されたわけだ。
う~ん・・、チョッと笑えてしまう。手塚漫画のBLACK JACKで、内臓がすべて左右逆に生まれ付いたクランケを手術する際に要領を得ず、機転を利かせたピノコが差し出したミラーで左右を戻してオペを続けたくだりを思い出してしまった。この機械の設計は非常にクラシカルだ。1900年代前半のヴィクトラン・ピゲ時代のパテック社御用達エボーシュをお手本に、スプリットセコンド・クロノグラフを設計段階から組み込んだベースキャリバーとして2005年に誕生した。自社製クロノグラフムーブメント第一弾を一番複雑なタイプから取り掛かるあたり、いかにもパテックらしい。
でも個人的には単純にムーブメントを180度廻すのではなく、同一設計をアシンメトリーに組み直して12時と6時の日付カレンダーと月齢表示は上下反転させず、何よりもスクエアシェイプのスタート・ストップ用プッシュボタンは8時ではなくて10時位置で仕上げて欲しかった。なぜ?って、スタートとストップのプッシュ操作は基本的に親指で支えて人差し指で押したいから・・レフティの為に箸置きは右に、ナイフは左に、フォークは右に・・とお願いしたいナァ。とびきりの超高額モデルなのだから縦置きに設計開発されたエンジンを単純に横に置き換える様なケチくさい事はせずに、変更設計を加えた専用エンジンが相応しいと思うのだけれど・・。それゆえに今春のWatches & Wonders 直後に発表された10分の1秒クロノグラフ(高度でダイナミックな変更設計が与えられ、5373Pより若干リーズナブルな)5470Pに個人的軍配をあげたい。
さて、コロナ禍は新製品の発表スケジュールさえも見直しを迫っているかのようだ。春のリアルな新作発表の場を失った最初の年2020年は超絶を含むグランド・コンプリケーションやPP6新工場落成記念限定カラトラバ等の特殊なモデルが少な目に時期もバラバラに発表され我々正規店もWEB確認だけの全くの五里霧中状態だった。
一昨年2021年もリアル開催は無理で発表時期も数回に分けられたが、パテック社はその状況をあらかじめ覚悟して戦略的に小出しに発表をしたように思う。そして今年2022年はかつての聖地であったバーゼルから他のビッグブランド数社と共にジュネーブの《Watches & Wonders Geneva 2021》にて2年ぶりのリアルな新作発表会が実施された。日本からの渡航がまだまだハードルが高かった時期でもあり、勇気あるジャーナリストとごく僅かな販売店も現地参加をしたように聞いている。
我々は開催と時を同じくして東京のパテック フィリップ ジャパンでリアルサンプルを初見する機会を得た。そしててっきり今年はそれで終わりで五月雨式のまとまった追加発表は無いとばかりに思っていた。しかしもう皆さんご存じのように昨年10月18日に秋の新作軍、それも魅力溢れすぎる超強力なモデルが8型もお披露目されたのだ。欧米を中心に春のジュネーブを訪問した正規店は多々あったはずだ。2021年の様に初夏や夏にトランプのカードを配る様な発表が今年は無かったが、春のリアルと秋のバーチャルの年2回(半年間隔)が今後スタンダードとなるのだろうか。それともコロナをまだまだ慎重にとらえて半年間様子を見た結果の答えが今回の秋の8モデルなのか。個人的には恐らく前者だと思っている。慢性的な品不足はコロナ下でさらに拍車がかかり、現物を店頭で確認する事が難しい現状で、皆さまにはフラストレーションでしかないが納品時に初めてご対面が恒常化している。コロナはあらゆる消費や購買をWEBを通じてモニターで見るだけで行うという新形態を加速した。どちら側も「オンラインでもええやん!」というスキームをいつの間にやら受入れているように感じるのだ。そう考えれば春と秋の分散発表も楽しみに思えてくる自分自身が一早くデジタルの奴隷になっているのかもしれない。
文責:乾
画像:パテック フィリップ
追記-本稿の書出しは昨年11月初旬だった。諸事情で中々書きあぐねて気づけば年末ギリギリとなってしまった。さらにグズグズと校正をしている内に年越しの公開になってしまった。それゆに本文中のタイムリーでない表現もあるがご容赦願いたい。
まだまだ書きはじめだった11月中旬には完全に意表をつかれたジュエリー使いのメンズの豪華版グランド・コンプリケーション4点が発表された。それらは今後のご紹介となるが、拙ブログで書き綴るレベルを超えている様な気もする。2022年は何とも多作の年であった。トータル25モデルは昨年の22より3つ多い。手元のあやしい備忘録でコロナ前の2019年ニューモデル数が23点なので特別に増えてはいないが、印象として豊作感を感じる。しかもハイジュエリー由来の超のつく高額モデルがドンドンやってきて、バブルの匂いがした昨年でもあった。お一人様で寂しく沈み込んでいった日本円相場のあおりで3回の価格改定があり、年初比較で20%以上の値上がりとなったが、さらなる値上げ期待があるのか加熱したブランド人気に陰りは全くない。今年は日本初開催となるグランド・エキジビションが6月中旬に東京で開催される。ブランド認知の裾野はさらに広がり、その価値も一層の高まりが予想される。ああパテックよ、おまえは一体どこまで行こうととしているのか・・。
コメントする
※ コメントは認証されるまで公開されません。ご了承くださいませ。