パテック フィリップに夢中

パテック フィリップ正規取扱店「カサブランカ奈良」のブランド紹介ブログ

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結構行楽日和が多かった自粛GWも終わった。しかしながら新型コロナ感染拡大との戦いは、まるで第三次世界大戦の様相となっている。GDP第2位の中国は、どうやら終息を迎えた様だが1位のアメリカやG7に名を連ねる先進国は満身創痍としか言いようがない。途上国はこれからのように見えるが、実態の把握がどこまで出来ているのか疑わしい。検査数の少なさで叩かれている我が国だが、個人的には首都圏を始めとした大都市圏も含めて、まあまあ頑張っていると思う。ごく一部の例外を除いて、流石に日本人は自主的自粛が出来る素晴らしい民族なのだろう。しかし経済への影響は想像すら出来ない。戦後の復興期が何時から始まるのか判らないが、たぶん秋ぐらいからしかまともな商売は出来そうな気がしない。
今年はホワイトアスパラもソーセージも楽しめなかった異常な春だった。さらに来年1月に延期?を決めたバーゼルワールドからパテックやロレックス等のメジャーブランドがそっくり撤退を決める異常事態となった。結果的にこの流れを受けてバーゼルワールド自体が開催の中止を決定した。
来春の新作発表は4月にジュネーブで開催予定の"Watches & Wonders 2021"(旧名称:S.I.H.H.,通称:ジュネーブサロン)がジュネーブ空港直近の見本市会場のパレ・エクスポ(モーターショーで有名)で開催される。カルティエを筆頭としたリシュモン・グループが、その核を成しているが、バーゼルワールド同様に昨今は、集客に陰りもあって開催期間を短縮したり、一般客を入場させたりしていた。正式な話としては聞いていないが、パテックやロレックス等のバーゼル撤退組も同時期にパレ・エクスポ内での開催を検討しているようだ。ただ既存のW & W 2021に組み込まれるのか、別の枠組みを目指すのかは不明である。
世界の時計業界に於ける大激震真最中なのだが、今現在注目しているのが2020年新作発表の扱いである。大御所のロレックスとパテックが相談したのかどうかは知らないが、新作の発表を見送っている。来年まで持ち越すのか、世界が有る程度落ち着きを取り戻して商売も普通に出来るような状況を待っているのか。いづれかは判らないし、落ち着くタイミング次第という事も有ろう。ただ個人的には賢明だと思うのが、現状でWEBのみ使って生産の裏付けも無いままに中途半端に発表しても勿体ないだけではないかという事だ。
カルティエを筆頭にしたリシュモンや、ウブロやゼニス等を要するLVMHグループ、この二大時計コングロマリット傘下のブランドがニューモデルをこぞって発表している。スォッチグループでは代表的なオメガは発表を控えている様だが、ブレゲやブランパンは新作発表をしていて対応が分かれている様だ。

しかし、第二次大戦の戦後復興以来の経済不況がやって来そうな中で、ラグジュアリーウオッチの価値と言うものはどこまで担保されるのだろうか。想像するにあらゆる商品分野で必要最低限の実用性を備えた低価格な商品が求められるようになるだろう。給与生活者をメインターゲットにしてきたミドルレンジ(そこそこのステータス、若干オーバースペックな実用性、購入顧客の半分は分割支払いが前提な価格設定)は、そもそも厳しい状況であったが、総崩れになる可能性が高い。ではハイエンドはどうなるか。此処は元々の価値がしっかり裏打ちされているブランドやモデルはある程度売れ続けるが、そうでない物は一気に成長したブランドが多いのでストンと落ち込んでしまう可能性がある。兆候が出始めると投げ売りが発生し、ブランド価値が大きく損なわれるかもしれない。
パテック フィリップに関しては、価値の裏付けがかなりしっかりしている。むしろ、今現在世界中で若干デフレ気味と言われているが、戦後は過去いづれもハイパーインフレになっているので保有価値がさらに上がる可能性がある。商品トレンドは保守傾向に傾くと思われるが、パテックは元々がコンサバ志向なので路線変更は不要に思われる。

暗い話ばかりで申し訳ないのだが、せめて興味を共有して面白く楽しみたいのが棚上げになった2020パテック フィリップ新作予想!尚、ブランドからは全く情報は頂いておりませんし、例年若干のリーク情報が聞こえるのだが、今年は全くそれも無し。完全な個人的想像、むしろ願望に近い。
1、ノーチラス 永久カレンダー ローズゴールド 5740/1R-001
現在WGで人気モデルとなっている5740/1G-001のRG素材追加、文字盤は普通ならブラウンだが、個人的希望は艶感の有るブラック。この追加で多少なりとも人気分散されスムーズな受注と納品に繋がれば嬉しい。
2、カラトラバ クンロク 自動巻3針カレンダー 5596G,R-001又は6296G,R-001
昨年、生産中止となったド定番だった5296の後継モデル。ここ数年のカラトラバシリーズのダイエットは個人的には少し異常。実用時計最右翼のモデル復活は絶対必要。最近の傾向でYGは無い様な気がする。
3、ノーチラス 年次カレンダー SS 追加文字盤 5726/1A-015
こちらも異常人気で、生産中止迄に恐らく納めきれない2019年新作5726/1A-014の状況を少しでも改善してもらえたらのリクエストモデル。文字盤カラーはシックな濃い目のグレーだと復活になるのでブラックか。
4、アクアノート ・ルーチェ自動巻 SS 5069A-001,010,011
此処数年のレディースコレクションの見直しトレンドがクォーツからメカニカルへの移行。特に実用レディス筆頭だったTwenty~4®に大ナタが振るわれ、レクタングルケースの人気クォーツモデル群が全廃された。
さて同じく今年全モデル生産中止が発表されたアクアノート・ルーチェのクォーツSSモデルの5067Aは毎年のようにニューカラーを追加しながらソールドアウト確実なベストセラーだった。仮にメカニカル化されれば価格は200万円台前半になりそうだが需要は凄くある。カラーはホワイト、ブラックはマストで他に1~2色出れば嬉しい限りだ。
5、ゴンドーロ メンズ レクタングラ―
一番無さそうなシナリオだが、今現在ゴンドーロにはメンズモデルが存在しない。しかし終盤のリストラモデルが売れていなかったかと言うとそこそこ売れていた。素晴らしい角型のキャリバー2型がお蔵入り状態は一体どうした事だろう。具体的な時計像は想像困難だが、何か出てきても良いと思うので、敢えて。

拙ブログを見て頂いてのメールや電話でのお問い合わせを、時々頂いているのですが、コメントが来た事が有りません。今回はご興味があれば、是非とも新作予想をされてみませんか?勿論単なる希望モデルで構いません。今回記事で予想した同一モデルでも嬉しい限りです。実際のモデル発表が、いつどのような形になるかは判りませんが、見事正解の方にはパテックのオリジナルノベルティーをプレゼント予定です。ご応募は今月末までとさせて頂きます。
実はこの企画は4月に当店の一軒隣にオープン予定だった奈良県初の高級ホテル『J.W.マリオット ホテル』(未だに開店時期未発表)の施設を活用しながら『パテック フィリップ展』をバーゼルワールド2020直前に開催し、会場で新作予想をして頂く予定でした。残念ながら新型コロナ過で展示会は中止しましたが、せめて新作予想企画だけでも楽しんで頂けたらと思う次第です。

文責:乾

今回も随分と日が空いてしまった。例年2月前半は商売が暇な時期という事で、各ブランドが展示会やらミーティング、イベント等を仕込んで来るので、やたらと出張が多い。特に今年は1月下旬から4週連続で東京往復をした為、まとまった時間が取れなかった。
それは言い訳であって、いよいよ残り僅かになってきた正史のまとめは、ほぼ直近20年間の出来事なのだが、何だかとっても書き辛いのが遅延の大きな理由だ。この時期はフィリップからティエリーへの権限移譲がなされた大切な時期なのだが、フィリップ自身は徐々に黒子を決め込んで行く。かといってティエリーの色が全面に出てくるにはまだ少し移行期間が必要だという事もあるのだろう。
フィリップの敷いたレールに乗っかって生産体制の垂直統合化がより一層進化した時期とは言い過ぎだが、景況に多少の波は有っても高級機械式時計市場への追い風が常に吹いていた良い時代だった。20世紀までのピンチとチャンスがジェットコースターのようにやってきた波乱と背中合わせではない比較的順風満帆な20年を語っても、面白みには欠けてしまうのは止むを得ないかも知れない。
大きなトピックスとしては2009年にパテック フィリップ社独自の品質基準であるパテック フィリップ・シール(以下PPシール)を発表・採用し、それまでの基準として採用していたジュネーブ・シールの使用中止がある。そもそもジュネーブ・シールは1886年にジュネーブ市議会が同地で製造された機械式ムーブメントの製造技術を保護するために「ジュネーブ天文台の時計作動検査に関する法律」を可決した事に始まるとウィキペディアにはある。基準は12条からなり認定されたムーブの地板にはジュネーブ州の紋章の刻印がなされた。
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高級機械式腕時計のお墨付きとしてCOSC(Controle Officiel Suisse des Chronometres)いわゆるクロノメーターと並ぶ2大基準であることは有名だ。
実はパテック社が、ジュネーブ・シールに関しては最長にして最大の擁護者であり、記憶違いでなければ高級時計ブランドの中で、検査や認定過程を経ずに全ての機械式ムーブメントにジュネーブ・シールを自社の製造過程で刻印が許可された唯一のブランドであると聞いた。逆にクロノメーター基準に関してパテックは過去全く基準として採用していないのは興味深い。実際随分長きに渡って-3秒~+2秒を出荷基準としている彼らにとって費用と時間を掛けてCOSCを取りに行くメリットは無いのだろう。
さて、なぜ独りよがりにも聞こえそうな自社基準PPシールなのか?フィリップ・スターンは、いくつかの理由を挙げている。まずジュネーブ・シール基準の最終見直し年度は、半世紀以上も前の1957年であまりにも時代にそぐわない基準になっている。ムーブメントの美的基準が中心で、時計精度の規定が無い事。さらにジュネーブ州内での製造・調整という制限が、現在のスイス時計産業の製造拠点分布の現状にはそぐわない事。

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個人的には、COSCもジュネーブ・シールもさらに新参のカルテ・フルリエ(2004年にショパールやパルミジャーニ等が共同設立した独立検定機関)も今日ではあまり意味を成さないと思っている。そのいづれもがコストが掛かっていて時計の価格に乗っかっている。国産も含めて中堅以上のブランドの機械は相当に高精度なので文字盤に記入されるデザイン要素だけの様な気がする。確かに見慣れたロレックスのダイアルに「SUPERLATIVE CHRONOMETER OFFICIALLY CERTIFIED」の文字列が無ければデザイン的に落ち着かないのかも知れない。でも100%クロノメーター宣言したブライトリングもCOSCが購入の決め手になっているとはとても思えない。
PPシールについては消費者や購買者へでは無くて、ブランド自身の製品基準コミットメントの意味合いが強いと思っている。
その路線を貫く事が、同社をあらゆる部品の内製化(マニュファクチュール度合いの向上)へと向かわせる事となった。2001年"カラム社"買収(ハイエンドなケース製造スペシャリストでスタッフ80名)、2006年"ポリアート社"取得(ポリッシング専門工房でスタッフ60名)、同年SHG社に投資(高度ジェムセッティング工房でスタッフ50名強)。これらの事業体はジュネーブから車で1~2時間のル・クレ・デュ・ロクルの近代的工場に収容されている。その他にも本社工場の直近にはケースとブレスの製造拠点としてペルリー工房を2003年から稼働している。
スターンファミリーのルーツは1932年にジャガー・ルクルトと競ってブランドを入手したスターン兄弟文字盤製作所の買収に遡る。2004年に古くからの名門ダイアルサプライヤーであった"フルッキガー&フィス社"(1860年創業)が財政難に陥っているのを救済すべく買収し、70名の職人を得て文字盤製造事業復活を果たした。尚、現在社名を"フルッキガー文字盤会社"として年産12万枚のダイアルを生産している。パテック社以外の著名ブランドへも供給がなされている。ちなみにパテックの文字盤はインデックスのプレス成型仕上げが一切採用されていない。シリコン転写の文字付けは勿論あるが、立体的なインデックスや装飾は全て手作業によるアップリケ(植字)仕上げである。2012年に現地見学の機会を得たが、文字盤工場と言うのは作業内容が判り易いので無茶苦茶に面白い。是非再訪の機会を得たいものだ。
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上画像:2009年にPPシール発表に際して撮影されたスターン親子
さて、結構有名な事業継承の逸話は2006年のクリスマスの出来事である。一時行方不明となっていたウォッチが巧妙に仕込まれたUS10ドル金貨をフィリップ・スターンからコイントスで受け取ったティエリー・スターンへと事業は引き継がれた。まさか作り話ではなかろうが、少々芝居がかっていてこのくだりは飛ばして先を急ぎたい。※但し、
実際の社長就任は2009年だった。
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新社長ティエリーの最初の大仕事は、2014年のブランド創業175周年記念イベントであり、その象徴は7年の歳月を要して開発された超複雑の音鳴り系の怪物傑作時計グランドマスター・チャイムRef.5175に尽きる。たった7本しか製造されなかったが、現在現行コレクションとしてカタログ掲載されているRef.6300Gとして販売されている。時価で2億円以上する高額時計ながら多数の注文があると言うから驚きだ。相当な購入実績が無いとまず入手は困難だろう。因みに昨年11月のオンリーウォッチ(2年に一度の難病治療目的のチャリティーオークション)にパテックは、ステンレス素材のグランドマスター・チャイムRef.6300A-010を出品。同オークションでの最高落札モデル常連であるパテックは、今回も3,100万スイスフラン(落札前日終値レートで34億弱)という腕時計史上最高額で落札されている。しかも最後まで競り合ったのが30歳前後の方々という事であり、あまりに凄すぎて言葉を失ってしまう。

二つ目のティエリーの成果は、2012年ドバイを皮切りに世界主要5都市で開催された"パテック フィリップ・ウォッチアート・グランド・エグジビション"である。昨年秋のシンガポールが記憶には新しく、真っ赤なアクアノートに興味を抱かれた方も多いと思う。
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出来れば個人的に弾丸ツアーで訪問したかったのだが、都合がつかず断念した。
「レベルの高い時計愛好家が多いとされる日本(東京)が近い将来選択されても不思議はないので大いに期待したい・・」
とパテック フィリップ ジャパンのスタッフに昨年話していたのだが、2022年東京での開催が正式に決定された。会場や日程は未定ながら、絵画館で実施された2014年の175周年記念イベントの数倍の規模での開催となる。前例に従えば日本の正規販売店の最重要顧客向けに限定モデルが用意される事は間違いないだろう。この特別なモデルの争奪戦は凄い事になるだろう。パテックによる購入希望顧客の選択基準は全く想像出来ないが、全くの私見として昨今のスポーツモデルへの人気集中があまりにも酷い傾向なので、各シリーズを偏らずにバランスの良いコレクションを収集している方にご販売が出来ればと思っている。


最後はさらなる工場の拡張で"新社屋PP6"の名称で現在の本社工場に隣接して2015年から工事が始まり既に完成している。床面積5万平方メートルの5階建てで建物の長辺が200mという巨大建造物だ。これで少しは人気モデルが増産されるという事は無く、主に部品製造とレアハンドクラフトの工房や時計技術者の教育やトレーニング施設として使われる様だ。人と物の両面でさらに自社化を推進するための新社屋のようである。こちらも是非とも現地見学をしてみたい。

尻切れトンボの様な最終回になってしまったが、最後にご案内したいのが"パテック フィリップ正史"の巻末にある三つの付表である。一つ目は時計品番(リファレンス)索引で、品番管理が始まった1932年のRef.96から2015年迄の全モデルを網羅している。品番で追っかければ、キャリバー・発表年(初出)・製造素材が一目でわかる。二つ目はキャリバーナンバー毎にどの時計に搭載されていたのかが一目瞭然だ。三つ目はやはり1932年から各年に発表製造された時計の品番が網羅されている。製造終了年度が記されていないのが残念だけれど非常に便利な資料である。
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5カ月強に渡った正史の要約は、正直なところ何度か挫折しそうだった。でも経営者のビジョン(信念)とたゆまぬ努力がブランドや企業を構築するという当たり前すぎるが、自分自身も含めて中々出来ていない事をスターンファミリーから再認識させられた貴重な経験となった。長文にお付き合い頂きありがとうございました。


文責:乾

参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス・フォークス)
「パテック フィリップ正史(日本語版)」は正規販売店にて購入可能です。在庫の有無は各自ご確認下さい。税別24,200円
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出来ればフィリップ・スターン時代は前後半の2回で終わりたかった。正直9月半ばに正史要約を始めた時は2ヶ月位で終えるつもりだった。何しろ2019年新製品が徐々に入荷する時期であり、その紹介は非常に興味深いし拙ブログを構成する大事な記事だからである。しかし正史要約の途中にそれを挟む事は、煩雑となり中途半端すぎて出来なかった。かくして取り敢えず入荷してくるニューカマーについては、撮影だけ済ませてご納品という事になった。撮影から原稿着手迄の時間が長くなると、どうしても印象が薄れがちになる。撮影と相前後して手元に現物を置きながら、原稿を同時進行して行くのが理想的なのだが・・
正史要約がとうとう4か月目に突入してしまった。それ程読めば読むほど正史は奥深く面白い。特にフィリップ・スターンの功績があまりにも偉大であるため、3分割となってしまった。本稿では創業150周年祝賀を成し遂げる事でスイス機械式複雑時計の復活を確信したフィリップが、家族経営による独立路線に邁進し、確立し、そして維持継続して、将来的なティエリー・スターンへの経営継承の為に時計製造の垂直統合を図り、事業規模拡大をダイナミックに進めてゆくフィリップ・スターン経営の総仕上げ編となっている。

フィリップ・スターンは1970年代初めに将来の年間生産量を約25,000個まで増産したいと考えていた。しかし下方修正余儀無しで1990年に17,500個へと目標は定めなおされた。大きな称賛を浴びたキャリバー89の様な超複雑時計の開発は、ブランドの技術的優位の確立に貢献しても、僅か4個の市場投入では事業構築の基盤にはなり得なかった。パテックをパテック フィリップたらしめる為にこれらの超絶時計の開発と発表は必須であるがゆえに、その原動力として商業的なシンプルかつ上質な高級時計を量産する事での事業拡大が必要不可欠であった。スイス高級機械式時計の復活にフィリップが邁進した結果、急速に業界は投資家達の興味と注目を集めメゾンを貫く事が困難になって来ていた。実に皮肉な話ではある。
フィリップ・スターンが社長に就任した1993年当時のパテックの製造拠点は、歴史的なローヌ通りの本社を筆頭にジュネーブ市内の8ヶ所に点在していて極めて生産効率が悪かった。またどうしても各拠点でセクショナリズムに陥りやすくベクトルの統合も難しかったと推測される。「市内各所に散在する工房からなる小さい王国のパッチワーク」と比喩したフィリップは究極の殿様ではあったが、各拠点には封建的な城主も多々いた事を示している。

フィリップが目を付けたのは、ジュネーブ郊外の小さな村プラン・レ・ワットであった。1990年代初めのプラン・レ・ワットには車の販売代理店、荒廃した古城、数軒のレストラン以外は何もなく、およそパテックの新しい統合拠点としてふさわしい場所とは誰もが思えない辺鄙なエリアであった。
時代的には、まだまだクォーツとの戦いは継続しており、機械式時計製作への巨額な投資などは疑問視されていた状況で、人里離れた25,000平方メートル(約7,600坪)の土地にパテックの年商に等しい投資をフィリップは大英断で行った。敷地内には15世紀に築城された古城シャトー・ブランが有り、後にパテック フィリップにより完全にリノベーションされ、現在はVIP招待サロンとして用いられている。尚、その後同地には世界的に著名な時計ブランド(ロレックス、ヴァシュロン・コンスタンタン、ハリー・ウィンストン、ピアジェ等)が続々と工場を建設し、現在は一大時計工場団地と化している。
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1996年に工場は落成した。巨大な新拠点は訪れる人々にブランドの世界観を見て体験する事を可能にし、それまで掴みづらかったブランドの大きさを等身大で理解させる事を容易にした。これが結果的にはパテックの知名度向上とさらなる需要喚起に結び付いた。
翌1997年には新本社工房の正式落成を記念して2種類の限定モデルが発表・発売された。一つは創業150周年記念として復刻されたシンプルなオフィサーケースモデルRef.3960(1989年)を発展させたミニット・リピーターRef.5029。もう一つは1950年を挟んで前後15年間に製作されていた"パゴダ(PAGODA:仏塔)"と称される個性的なケースシェイプを持つRef.5500(紳士用)とRef.4900(婦人用)であった。前者の限定モデルにはスイス公式クロノメーター試験COSCとジュネーブ・シール認定機関が合同して特別に発行した個別歩度証明書が、時計製作史上はじめて付けられていた。このパゴダの冷間鍛造用の金型も破棄され将来の再生産を不可能にする事で、限定モデルの希少性が約束された。
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正史では話が少し横道に逸れ、この頃のティエリー・スターンの動向に触れている。祖父アンリ、父フィリップ同様にニューヨークのヘンリー・スターン・ウォッチ・エージェンシーでの見習いを終了したティエリーは、1997年にジュネーブに戻りジュネーブ・ヴィユー・グルナディエ通りのケース・ブレスレット工房のアトリエ・レユニ社(同所はパテック フィリップ・ミュージアムとして現在再活躍中)で修行を積む。1996年迄稼働していた同工房も新社屋に移転され、ティエリーは新生パテック フィリップでのキャリアをスタートさせる。この時期まだまだフィリップの時代であり、ティエリーの経営参画はもう少し後の事になる。
寄り合い所帯でスタートした巨大な新工房では、古参の棟梁達の適応に数年を要したが、創造性と発明の才が一気に開花して、それまでのベーシックでシンプルな時計群(カラトラバ、エリプス、ノーチラス・・)とグランド・コンプリケーション・コレクション(永久カレンダーやミニット・リピーター等)の間を埋める(有用な)コンプリケーションが誕生した。1996年発表の年次カレンダーRef.5035がそれである。
現在では各ブランドが様々なアニュアル(年次)・カレンダーを製作しているが、パテックは間違いなくその先駆者である。アニュアル・カレンダーを製作する一番簡単な方法は、実に単純で乱暴に言えば従来の永久カレンダーから48カ月で一回転する歯車を省くだけでよい。パテックが凄いのは全く別のアプローチで従来の永久カレンダーを構成する主要パーツであるレバーやカムを使わずに歯車の組み合わせによる新設計で特許技術を獲得し完成させた点にある。機械式時計に於いて歯車の増加=摩擦の増大なので、高トルクのゼンマイパワーが必要となりパワーリザーブ的には厳しくなる宿命を負っている。この課題をパテックの技術陣は歯車の歯型曲線の新設計と開発、さらにお家芸である徹底的な歯型研磨で摩擦の増加を極力抑える事で乗り切った。このプロセスの成就は、単に年次カレンダーモジュール製作に留まらず、それ以降のパテック フィリップ製品の様々なコンプリケーション化に大きく寄与したと推察している。
さらには温故知新と言えるトラベルタイムRef.5034が1997年に発表される。このモデルは約40年前に遡る1959年にジュネーブの時計師ルイ・コティエによる特許の下で製造開始されたRef.2597HSが原点である。
レディス用コレクションにも、それまでのパテックには全くラインナップされた事の無い画期的なタイムピースがリリースされた。1999年発表のTwenty~4®は、時代を反映し自立した女性が、自分自身での購買を決意する高い実用性を備えた時計の提案だった。現在に続くこのレクタングラ―のベストセラーレディスウォッチは、女性達にパテック フィリップ・ブランドへの門戸を開く大きな役目をはたした。
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ミレニアムイヤーの2000年には2つの香箱を搭載した10日間のロングパワーリザーブモデルの10デイズRef.5100が限定製作された。その独特なケースシェイプは、1954年に発表されマンタ・レイ(鬼イトマキエイ)と呼ばれたトノ―ケースを持つRef.2554からインスパイアされた。尚、同モデルのエンジンは2018年2月に生産中止が決まったゴンドーロ8デイズRef.5200に引き継がれていた。現行ラインナップには同エンジンの系譜に連なるモデルが無いが、個人的にはきっと近い将来に新機軸でリバイバルされるものと信じている。
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特別な年に過去の膨大な遺産から想起されるケースやダイアルデザインを用いて最先端のパテック技術を盛り込んだエンジンを積むというスタイルは、熱狂的な時計愛好家の渇望を生みブランドをさらに高みへと導いていった。
しかし何と言ってもミレニアムイヤーモデルの極め付きは"スターキャリバー2000"である。150周年記念モデル"キャリバー89"開発時と同様にパテック時計師の頂点であるポール・ビュクランを含むドリームチームが1993年に結成され開発・設計・製作に当たった。
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135個の歯車、73個のスプリング、33枚の受けを含む1,118個のパーツからなるムーブメント、21の複雑機能と6つの特許技術革新を誇るスターキャリバー2000の相当に複雑な詳細をここに記述するのは割愛するが、4素材(YG,WG,RG,PT)のセットが4つ、さらにPT素材のみが4つセットされた特別なセットが一つ製作された。製作時計合計数は20個という事になる。これはプロトタイプを含めてたった5個しか製作されなかった(出来なかった?)キャリバー89に較べて、部品点数と複雑機能数で若干劣るとは言え凄まじい技術革新の10年間があったと言わざるを得ない。

マニュファクチュール・パテック フィリップは激動の20世紀を次のように総括している。「この1世紀の間に、機械式タイムピースは懐中から手首へと移動し、電子的に動くクォーツ・タイムキーパーの前で消滅の危機に直面し、次いで辛くも破滅を免れ、そして世紀末になって評価され重んじられるオブジェとして再興した」と・・
新しいミレニアムの初め数年間には、トゥールビヨンをいくつかのタイムピースで精力的に復活させている。まず2001年にスカイムーン・トゥールビヨンRef.5002をケース径わずか42.8mmという実着用サイズでリリースした。さらに2003年にはミレニアム・ウォッチであった10デイズ・レクタングラ―Ref.5100の系譜である10日巻トゥールビヨンRef.5101を発表。
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上画像:左10デイズ・トゥールビヨンRef.5101(2003)、右スカイムーン・トゥールビヨンRef.5002(2001)
これらのテーマ性を持った複雑時計製作と並行して、フィリップ・スターンが情熱を傾けたのが、約1000点に及ぶ個人コレクションを展示・紹介する博物館の開設であった。彼はパテック フィリップによって製作された時計展示に留まらずに時計製作史の全期間にわたって歴史的に重要な傑作を網羅陳列する事をも画策した。これはヨーロッパ、特にジュネーブの希少な時計群と自社ブランドの創業以来の傑作時計の展示という2つのテーマ性を持ったミュージアムに他ならなかった。これらの崇高で貴重なタイムピースを収める箱としてケース・ブレスレット工房アトリエ・レユニ社の為に、1975年に購入されたジュネーブ市内ヴィユー・グルナディエ通りの建物が大規模にリノベーションされた。このリノベーション事業を委ねられたのは、フィリップの妻ゲルディ・スターンであった。「展示品の品質とその展示方法において、世界で最も美しく誉れ高い、時計製作のみに捧げられた時計博物館」をコンセプトに2年間に渡って改装は進められ2001年に落成した。
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フィリップ・スターン夫妻の情熱が込められたミュージアムには過去2回訪れている。時期は定かではないが開館後の間も無い頃に駆け足で見た。確か早春でSIHH(ジュネーブサロン)の最中に見たはずなのだが、短時間かつ知識不足過ぎて歴代クンロクモデルぐらいしか印象になかった。2度目はパテック社の招きによってファクトリー見学ツアーのメニューとして訪れた2012年11月。この時はガイドが付き、さらに正史の翻訳家でもある小金井先生のライブ通訳と解説も聞けた贅沢極まりない見学で、ほぼ全体像を把握する事が出来た。しかしである。もう一度じっくり一人で訪れたいのである。この4年半、手元でダイナミックにパテックの現行モデル販売に関わり、拙ブログを書き込む内に知らずと身に付いたブランドと傑作タイムピースの知識。さらに今回四苦八苦しながらも書き進めてきた正史の要約を通じて得られた数々の情報。これらを携えて一日腰を据え、時計史とブランド史を堪能出来るか否か、どこまで理解度合いが進行しているのかを確かめてみたいのである。

ミュージアムの開設によって時計製作の遺産は強固に守り継がれる事になったが、フィリップは「全く新たな地平線」と表現すべきプロジェクトも並行して進めていた。彼はそのことを「技術革新を通じて伝統を永続させる選ばれた者の宿命」であるとした。2005年100個のみ製作された極めて特別な年次カレンダーRef.5250Gからそれは始まった。極めて特別であったのは従来金属製であったガンギ車にシリコン素材を採用した事である。
スイスレバー式に代表される脱進機の完成以降、機械式時計の進化の焦点は、その殆どが機械式の心臓部とも言われるテンプ廻り及びそれに連なるアンクルとガンギ車からなる脱進機の改良に明け暮れていたと言っても良いだろう。テン輪に於いては1800年代末期から1900年代前半にかけてスイス人物理学者シャルル・エドワール・ギョームが開発したインヴァール合金、エリンヴァール合金さらにはベリリウム青銅グリュシュデールが、画期的な進歩を機械式時計にもたらした。パテック フィリップ社独自のテン輪への技術革新の大きな足跡としては、1949年/1951年に特許を取得したジャイロマックス・テンプであろう。髭ゼンマイの進化では1933年に開発されたステンレス系新素材ニヴァロックスがある。
長きにわたり金属素材が独占していた心臓部廻りの主要パーツは、非磁性・耐衝撃・耐変形・耐温度変化を高度に実現するための開発競争が続いていたが、ミレニアムを迎える頃から各ブランドがこぞってシリコン素材の可能性に注目し、実用化競争が始まった。これに対するパテック社の解答が、汎用的な定番製品への搭載に先立つ試験的採用モデルへの限定的な搭載、すなわちアドバンストリサーチと呼ばれる特別な商品群の製作であった。手始めのRef.5250Gのガンギ車へシリコン素材の試験搭載に続いて、翌年の2006年にはSilinvar®と称してシリコン・ベースの新素材を開発して髭ゼンマイへの採用がなされSpiromax®と命名された。これを同年に搭載し300個限定で発表されたのが年次カレンダーRef.5350Rである。さらには2008年に第3弾としてアンクルもシリコン素材Silinvar®を用いて300個限定の年次カレンダーRef.5450Pを発表。
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完全にシリコン化された脱進機はPulsomax®脱進機と命名された。進化はまだまだ止まらなかった。シリコン化の総仕上げとして2011年にSilinvar®素材を主材として24金を部分的にインサートした砂時計形状のGyromaxSi®テンプと名付けられた全く新しいテンプが、組み込まれた永久カレンダーRef.5550Pが300個限定でリリースされた。
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このGyromaxSi®テンプ+Pulsomax®脱進機+Spiromax®髭ゼンマイの3者の組合せによるシリコン製心臓部全体パッケージを総称して、パテック社はOscillomax®と命名した。その構成部分には17件の特許技術が盛込まれている。Oscillomax®が組込まれたベースキャリバーには、1977年以来同社の実用的な基幹エンジンとして活躍してきた極薄自動巻Cal.240が採用された。従来素材の心臓部で構成される既存の240のパワーリザーブは48時間であるのに対し、高いエネルギー消費効率を誇るOscillomax®ベースのスペシャルチューンのハイスペックエンジンCal.240 Q Siでは、70時間のロングパワーリザーブへと画期的な駆動時間の延長が実現した。

ところで全くの私見ながら、現在のパテック フィリップの実用的基幹自動巻ムーブメント群の唯一の弱点は、パワーリザーブの物足らなさにあると思う。10年前までは48時間パワーリザーブも標準的ではあったが、今日に於いては最低70時間近くは欲しいのである。実際に使い比べるとスペック上では1.5倍程度の違いが、使い勝手の上で倍ほどの違いを感じてしまう。特にパテックオーナーの大部分の方に取っては、複数個の愛用時計をTPOに応じて使い分けるのは日常的であろうから、3日間放置しても"即!"再着用出来るか否かは重要である。しかしながらパテック社はOscillomax®という素晴らしい答えを導きながら、ダイナミックな定番コレクションへの搭載を見送り続けている。さらに言えば手巻の8日巻Cal.28-20系も2018年春に一旦お蔵入りさせている。1996年発表の年次カレンダー開発から始まり、アドバンストリサーチ開発を通じて、飽くなきエネルギー効率化を推進させて来た同社の流れからして、少し違和感を覚えるのは筆者だけであろうか。

文責:乾

参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス・フォークス)
PATEK PHILIPPE GENEVE Wristwatches (Martin Huber & Alan Banbery)
PATEK PHILIPPE INTERNATIONAL MAGAZINE Vol.Ⅰ07,08,10 Vol.Ⅱ 01,07 Vol.Ⅲ 05 Vol.Ⅳ 01
COLLECTING PATEK PHILIPPE Vol.1(Osvaldo Patrizzi)

皆様、新年あけましておめでとうございます。本年も拙ブログにお付き合いの程、宜しくお願い申し上げます。
約30年近く時計に関わる商いをしてきたが、昨年の12月ほど消費マインドの低下を感じた事は過去無かった。パテックの客注分の入荷で売り上げと利益だけは、お陰様でなんとか最低限確保できたが、購入目的のご来店がこの時期としては極端に少なく歳末感やクリスマス商戦感が全く感じられ無かった。まるで店は暇だったのだがスタッフを含め何かとバタバタと忙しく、12月はとうとう記事が一本も公開できなかった。
そして気が付けば令和2年が既に始まって居り、また一つ齢を重ねる宿命が待っている。同時に店舗は老舗としての年輪を加える事になり、いつも複雑な心境にさせられる年頭である。

今回は、この時期のフィリップ・スターンの記述に有る"ライフスタイルの変化"から始まるノーチラスの話題から始めたい。彼自身も父アンリ・スターンの血を受けてスキーやヨットの愛好家であり、セミプロ級の腕前で数々の優勝タイトルに輝いた経歴を持っており、一早くフィットネスや健康に関する時代の変化を察知したのであろう。1968年4月のニューヨーク・タイムズが『最新流行のスポーツ、ジョギング』と題された記事を報道。フィットネスへの熱狂が始まるきっかけとなった。
多くの人々が、健康の為に運動し、スポーティで頑丈な時計が求められるようになった。
このニーズに最初に答えたのが、1972年に天才時計デザイナーのチャールズ・ジェラルド・ジェンタにより考案されたオーディマ・ピゲのロイヤル オークであった。遅れること4年の第二弾が、同じくジェンタデザインを採用したパテック フィリップのノーチラスである。デビュー当時の両者は同じデザイナーによって考案され、ジャガー・ルクルト社が開発したエンジン(AP/Cal.2121、PP/Cal.28-255)もほぼ同じ物であり、まるで兄弟の様であったが決定的に違ったのは、その防水性の差である。ロイヤル オークがそのケースの薄さゆえ僅か50m防水にあったのに対して、ノーチラスは125mもの防水性を確保した。
ジェンタはエレガントな薄いケースデザインを優先したため、ロレックスの厚いオイスターケースに代表されるスクリューバックと言う裏蓋構造を取る事が当時の技術では出来なかった。その解決策として彼はケースを2ピース構造とし、ベゼルとケースの間にゴムパッキンを挟む事で防水性能を確保し、薄いケースデザインを実現した。防水に対する基本的な考え方は両者同じながらロイヤル オークが特徴的な8本のビスでベゼルとケースを合体させていたのに対して、ノーチラスは3時と9時の"耳"と呼ばれる部分の採用でベゼルとケースをより強固に圧着固定する事に成功した。
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いつの時代も時計と車の流行は、連動している様でエレガントなスポーツウオッチ誕生と呼応するように1970年にデビューしたのがエレガントなSUV"砂漠のロールスロイス"と呼ばれたイギリスの名車レンジローバーである。パテック社内でも「レンジの時計バージョン、ラグジュアリーSUVにふさわしい防水スポーツウォッチ」の位置づけとしてノーチラスは開発された。後付けで知った話ながらレンジオーナーとしてはくすぐったい気持ちではある。
この時期、まだまだスイス機械式時計は冬の時代が続いていたが、1930年代ほどの深刻さでは無かったようだ。ただ強いスイスフランと金価格の高騰と乱高下によって、創業140周年を盛大に祝う事が、はばかられる代わりに1989年の150周年を特別な祝賀にする事をフィリップ・スターンは決心する。時を同じくして当時パテック社内で最高の時計師であったマックス・ステュデールから過去にない最も複雑な携帯用機械式時計製作の打診を受けたのである。後述するキャリバー89開発のプロジェクトの種はこの時蒔かれていたのかも知れない。

1980年の年末、フィリップ・スターンは極東への長期出張などを通じて、時代を席巻し機械式時計を駆逐してきたクォーツ時計が目新しさを失いつつあり、思慮深い時計購入者は真に永遠の価値を持ち偉大な芸術作品同様の陳腐化しない価値を維持出来るのは見事に設計された複雑な機械式時計である事を再認識し始めたと推察するようになった。
1980年の広告コピー「コンプリケーテッド・ウォッチ:昨日の名人芸、今日のコレクターズアイテム、明日のミュージアムピース」は現在にも立派に通じるパテック フィリップのブランド価値を表現する名言だと思う。
アンリ・スターンが個人的な趣味として収集していた七宝細密画コレクションは非常に僅かな物であったが、現社長ティエリー・スターンが子供時代に時計に興味を持つきっかけとなった。また今日のパテック フィリップ・ミュージアムの膨大なコレクションの始まりでもあった。アンリで始まったコレクションの収集はフィリップに引き継がれてより本格的になってゆくが、そこには重要なキーパーソンであるアラン・バンベリーの存在が有った。
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ロンドン出身の彼はジュネーブの時計学校で時計製作を学び、苦労して完璧なフランス語を習得する。ユニバーサルで1年働いた後、ロンドンに戻り兵役を経て王室御用達宝飾店ガラード社に5年間勤める。このガラード時代にパテックの時計を含むジュエリーセットを展示会でモナコ大公妃のグレース(元アメリカの著名女優グレース・ケリー、エルメスのケリーバッグの命名は彼女に由来)に販売した。このジュエリーセットの納品を通じて、バンベリーはパテック社に直接の繋がりを持った。さらに彼の能力に興味を持ったアンリ・スターンとロンドンで面談をするチャンスを得た。これが転機となり1965年3月にパテック社に入社し、アジア・アメリカ市場の営業担当として活躍、さらにフィリップ・スターンのミュージアム・コレクション収集を精力的にサポートした。特に著名な収集品として正史には、創業時の共同経営者であったフランソワ・チャペック製作の掛時計とスイス人俳優ミッシェル・シモンが所有していたリピーター系の懐中時計2点が紹介されている。
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これらの宝物は、大半がオークションハウスのカタログから丹念に探された。収集はまず懐中時計からスタートし、1975年頃からは腕時計もその対象となった。収集の基本はパテックがかつて製作した異なるタイプのムーブメントを集める事だった。また保存状態や所有者の来歴、さらに彫刻・七宝などの特別な装飾なども主要な評価基準とされた。最終的にはフィリップとバンベリーは1000点以上のコレクションを集めている。ちなみにアラン・バンベリーは、拙ブログでほぼテキスト的に熟読している『PATEK PHILIPPE GENEVE』(絶版)の著者の一人である。同書は現在要約している"正史"にも多数の画像等が引用されており、共通の記述も多々ある。

コレクションの充実に伴って、販売店の店内で開催される特別展示会の目玉として出品され、注目を集めると共に新作商品の販売にも大きく寄与した。これはかつて万国博覧会時代に受賞時計が果たした広告塔の役割に通じる物であり、それらのシナジーをフィリップ・スターンはまるでフラッシュバックのように感じていたのかもしれない。
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1979年当時のパテック社の一日当たりの生産量は平均43個であり、数年で倍増されたと言っても非常に少量であり量産化されたとは言えない。1個当たりの製作期間は8ヶ月も掛かっており、著名バイオリンのストラディバリウスのそれよりも長い期間を要した。正に時計師の忍耐、献身、誇りが、世代を超えて継承可能な生きた芸術作品を生み出したと言えよう。

1974年にフィリップ・スターンは『独立宣言』なる小冊子を制作し、販売店に配布した。冊子では家族企業としての独立を再宣言し、長年のパートナーである販売店に安心を与えると同時に、当時の時計業界を取り巻いていたクォーツショックやそれに伴う流通の激変についても躊躇なく大胆に言及し警告している。
前回記事でニコラス・G・ハイエックが巨大な時計コングロマリットであるスウォッチ・グループを築き上げたいきさつに触れたが、その他にネガティブな話として1930年代にスターン兄弟文字盤会社よりも先に、パテック社の買収を試みたジャガー・ルクルト社が筆記具の部品製造に手を出したり、IWCが玩具用のモーターを製造した事などがある。さらにはブライトリング社の1979年の休業とアーネスト・シュナイダー経営のシクラ社へのブランド譲渡。1986年には元サウジアラビア石油相アハマド・ザキ・ヤマニがヴァシュロン・コンスタンタンの全株式の取得を完了。1988年のカルティエによる家族企業ピアジェの買収・・等々の目や耳を塞ぎたくなる様な惨憺たる大嵐が吹き荒れる多難な時代が続いた。

そんな中、パテックの創業150周年である1989年が近づいてきた。フィリップは家族的でアットホームであるが、古風で古めかしい社内体制を、より現代的であったユニバーサル社出身のジェラルド・ブックスの助けを得て、コンピューター・システムの導入などを始めとして近代化する事に乗り出す。だが短期的な財政的ビジョンしか持たない投機的な株主に会社の方向性をゆだねるのは無責任だとして、あくまでも株式上場は望まなかった。これを実現するためは時計を増産して財務状況を盤石にする必要があったが、時代背景もあって、実にゆっくりとしかそれは進められなかった。しかしながらフィリップは経営方式は近代化しても、創業以来続くブランドのポリシーである技術的パフォーマンスと美的完成において世界最高とされる時計を少量製作し、独立を保持し高級な手づくり時計に集中するという意思を変えることは無かった。
時代の変化は顧客層の変化も伴っていた。ブランドに高い認知度を持っていた世襲の裕福層が衰退し、ブランドを知らないが高い購買力を持つ新興な裕福層が台頭してきた。この新しい顧客層に対して流行やトレンドを超えた工業製品ではない何ものかを、パテック フィリップが独自性溢れる時計製作を通じて体現している事を理解させる必要があった。その為にはブランドをより親しみやすくする必要性が有り、それまで品番のみで管理されていたコレクションが、大きく4つのファミリーに分類された。当時の名称とは少し異なるが、今日で言うカラトラバ、ゴールデン・エリプス、ノーチラス・・等々にそれは引き継がれている。アイデンティーを得た各ファミリーは、それぞれにふさわしい戦略的なマーケティング・プランが導入され、より時代に即したブランドへとブラッシュアップが進められた。
そのような施策が成果を上げ始める中、一方では複雑な機械式時計への需要に回復の兆しをフィリップ・スターンは先取りする。他の名門時計ブランドがブランドの売却や譲渡を余儀なくされる真最中にジュー渓谷に、小規模ではあったが新たな複雑機械式時計製作の為の工房を開いた。

1988年9月12日、パテック フィリップは、新作時計の発表では無く、反対に過去に製作した時計の購入についての記者発表をした。60年前に著名なアメリカ人時計コレクターであったジェームス・ウォード・パッカードから発注され16,000USドルで販売した天文表示懐中時計No.198 023を1,300,000USドルで買い戻すと言うとんでもない事がなされた。
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この事は自社の遺産に対して持つ誇りの大きさを示し、翌年の創業150周年の偉大な記念イベントや記念モデル発表に繋がるテーマでもあった。
1989年のパテック フィリップのブランド創業150周年は世界中の販売店がジュネーブに招待された。またキャリバー89を始め様々な記念限定モデルは熱狂的な祝福を受けた。
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キャリバー89(上画像)は5年に及ぶ研究開発期間を含めて完成まで9年の歳月を要した超複雑な傑作天文懐中時計である。裏面に9種類の天文表示を持つだけでなく、28世紀まで調整不要の世紀永久カレンダー、ムーンフェイズ、スプリットセコンドクロノグラフ、GMTを備え、さらには鳴り物系として5本のゴングでミニット・リピーターを始めグランドソヌリ、プティットソヌリ、アラームチャイムを鳴らすと言う化け物時計である。33種類の複雑機能を搭載し、合計1,726個の部品から構成され、4点の限定製作でプロトタイプをパテック フィリップ・ミュージアムで見学可能である。
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上画像左は同じく150周年記念モデルのRef.3969トノーケースのジャンピングアワーウォッチ。RG450個、PT50個の限定製作。製作後にムーブメント・エボーシュ(素材ムーブメント)とツールが破棄され、将来に於いて真の限定製作モデルで有り続ける事が保証された。パテックはこの後同様の手法を用うる記念的な限定モデルを製作する様になる。右画像は25年後の2014年に175周年記念限定モデルとして発表されたRef.5275。PT製175個限定製作はRef.3969の流れを汲んでいると推察される。
他にも150周年記念モデルは多々有るが、個人的に思い入れを持っているのが、腕時計黎明期に思いを馳せる事が出来る軍用オフィサータイプの手巻キャリバー215を搭載したRef.3960モデルである。
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当時は、実家の時計家業を継ぐ前の時代で実父が経営していた百貨店テナント数店舗でパテックを扱っており、このYGバージョンの限定モデルを5本仕入れ、4本を販売したが何故か1本が中々旅立てずにいた為に、めったに自分では時計を買わない親父が珍しく購入し、ずっと手元にあって使われていなかったもの(上画像)を、2000年頃に無理やり奪い取った経緯がある。購入当時の価格は語呂合わせもあったらしく、たった150万円(消費税導入前)だった。尚、箱は有るが時計に付属していたはずの小冊子の行方は不明である。実に惜しい!しかし、もし購入可能だったのなら限定数150本のWGか、50本のPTにしておいて欲しかった。YGは限定本数が2000本とパテックにしては多い為か、現在のプレミアはそれ程でも無い。

1989年は、ヴィンテージウォッチのオークション市場にも大きな変革がもたらされた。4月9日にジュネーブのホテル・デ・ベルグでオークショナ―のオズワルド・パトリッジが開催した『パテック フィリップの芸術(THE ART OF PATEK PHILIPPE Legendary Watches)』は初めて単一のブランドのオークションであった。300点以上の時計が出品され、合計落札額が驚異的な1,510万USドルとなった。最高落札価格をつけたモデルはキャリバー89で320万USドルで、合計落札価格の1/5以上を占めていた。尚、当時の日本は平成元年でバブルの最盛期であり、かなりの円高(1USドル120~140円)であった。仮に130円として試算すると当時の価格で総落札合計額は19億6,300万円となり、キャリバー89は4億1,600万円で落札された事に成る。
オズワルド・パトリッジ主催のオークションハウスは、後にアンティコルム(Antiquorum) としてよく知られるようになる。パテック フィリップの単一ブランドオークションの大成功を機に、1991年ブレゲ、1994年ヴァシュロン・コンスタンタンと単一ブランドのテーマ・オークションが開催される事となった。
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大きな関心を集めたイベントは、他にもあってパテック社自身が1989年4月から9月の半年の間にジュネーブ時計七宝博物館の2階フロアを借り切って、アラン・バンベリーの企画・運営によって開催された展示会である。会場が手狭だった為に収集品の約半分である433点の展示となったが、期間中6万人を動員する人気イベントとなった。これらのオークションや展示会がもたらした効果は絶大で、それまで販売店があまり積極的な興味を示さなかった150周年記念モデルの人気が高騰する事となった。またそれ以前には無かった"時計を収集品として購入する"という新しい概念を生んだのである。
後にニューヨークのヘンリー・スターン・ウォッチ・エージェンシー社長となるハンク・エーデルマンは「創業150周年はコンプリケーティッド・ウォッチの魅力を広げた」と語る。それは彼らのビジネスを前進させる明確な方向性であり、大量生産による販売拡大ではなく、製作が困難で高付加価値を持つ高価な時計を開発製作する事であった。言いかえれば複雑であっても消費者が高く評価する芸術的な時計作りが、パテック社の独立を維持しながらの発展に大きく寄与する道だと判明した事に他ならない。

1989年当時の同社の社員数は、まだ319名。しかし複雑な機械式時計の復活を確信したフィリップ・スターンは、偉大なる未来を予想していた。「私は可能性を感じる事ができました。1989年、パテック フィリップは真に生まれ変わったのです」

文責・撮影:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス・フォークス)
PATEK PHILIPPE GENEVE Wristwatches (Martin Huber & Alan Banbery)
パテック フィリップ創業175周年記念(2014年)

どこの家業(ファミリービジネスはこう呼びたい)でも世代交代は難しく、悩ましく、複雑になりがちだ。パテック フィリップのスターンファミリーの場合も明確な時期や出来事と言う節目が判り辛い。一応アンリ・スターンの有終の美的な記述は下記である。
1980年:ル・サンティエの時計工房ヴィクトラン・ピゲ社(1880年創業)の創業100周年記念祝賀会にアンリ・スターン(当時69歳)が主賓で出席。
※アンリは相当なパイプ煙草愛好家であったらしいが、2002年で91歳で他界されるまで長生きをされた。好きなレマン湖の船遊び等で随分と充実した余生を過ごされたのであろう。当然ファミリー意識溢れるスターン家の遺伝子からして、フィリップ・スターン名誉会長も最低でも2027年迄は頑張れるという事で、正規販売店としてこんなに心強い事はない。

1969年:老舗ジラール・ぺルゴ社(1791年創業)がスイス時計業界で初の株式上場。クォーツ時計の量産にも成功。
1969年、機械式時計最後の開発競争であった自動巻クロノグラフが2社+1グループから発表される。セイコー、ゼニス、4社共同(ブライトリング、ホイヤー、ハミルトン、ビューレン)
1969年:クリスマスにセイコーウォッチ株式会社がクォーツ駆動腕時計初代「アストロン」を発売
1970年:家族企業ホイヤーを、創業者の曾孫であるジャック・ホイヤーが株式公開する。
1970年:フィリップ・スターンが経済金融誌へのインタビューで、業界で巨大化してゆくグループへの参加を、現在も将来も否定する見解を発表。

前回記事の最後の方で、セイコー発信のクォーツショック(クライシスと言う呼び方も有)、さらに家業の集合体であったスイス時計業界の法人化への移行の兆しに触れた。しかし良く理解できないのが、当時アストロンが発売されたと言っても1969年12月に200個生産し、100個程度を日本市場で売ったに過ぎない。45万円(当時の中型車価格)と当初は非常に高級時計であり、量産とコストダウンには数年は掛かっている。にもかかわらず、ほぼ時を同じくして1970年前後にスイス時計業界に一気に暗雲が立ち込んできたというのは少し解せない。
そこで巨大化してゆくグループなるものを自己考察してみた。まずは1930年発足SSIH(Société Suisse pour l'Industrie Horlogère、スイス時計工業株式会社:中核ブランドはオメガ)。それと1931年発足ASUAG(Allgemeine Schweizrische Uhrenindustrie AG、スイス時計総合株式会社:中核ブランドはロンジン)。この二つあたりの事だと思われる。元々これらのグループは第一次世界大戦時の不況対策でグループ化され、その後ライバルとして成長をして来た。ちなみに両グループは、クォーツショックにより経営危機に陥って合併し、紆余曲折を経て現在スウォッチグループとなっている。余談になるが、このグループ統合の立役者が、かの有名なスウォッチブランド(スイスウォッチ略がブランド名由来)の創業者ニコラス・G・ハイエックである。
さらに1970年当時スイス時計工業界には、比較的近代的な一貫メーカーもあったが、まだまだ家内的手工業に毛の生えたような工場も多数あった。その保守的な体質の改善、合理化や近代化を銀行が主導して大胆に推し進めていった過渡期でもあった様だ。
フィリップの父アンリも"独立と自由"の維持を強く望んでいたが、他グループの傘下に入らずに実現する為には、自らが家業を大きく成長させ、圧倒的に健全な財務状況を構築する事が必須だった。これを真剣に考えやり遂げたのが、ちょうどその時期に事実上は、経営トップを担うようになったフィリップだった。
1970年代初期の年産量は15,000個、社員数366名とある。明確な時期の記載は無いが、当時は借入金額が年間利益を上回っており、健全な企業体質への早急な改善もフィリップの課題であった。以下少々、前回の記述を繰り返す。

1970年:フィリップ・スターンに長男ティエリー・スターン(現パテック フィリップ社長)誕生
1970年:パテックがスイス時計会社21社で共同開発したクォーツムーブメント"ベータ21"を搭載したRef.3597/2や3603/2を発表。
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しかし、パテックはこの共同開発ムーブに満足できず、次のトレンドになりそうだったデジタル表示タイプの非採用をも決定し、自社のメカニカルムーブメントと同等の品質基準を満たすアナログ表示のクォーツムーブを独自で開発した。

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この際に開発された小型で樽型のE 15クォーツキャリバー、丸形のE 23は実は今も現役である。前者はレディスのベストセラーTwenty~4®Ref.4910系に、後者のE 23はレディスノーチラスRef.7010系に搭載されている。しばらくの間はメンズコレクションにクォーツモデルも生産・販売実績が有ったが、現在はラインナップされていない。パテックはムーブメントも経営者同様に長寿だが、クォーツに於いてはギネス級の長寿キャリバーだ。
以前は、個人的に何故にそんな古臭いムーブを使い続けるのか不思議だった。精度も現代の最先端クォーツは年差であり、今年のバーゼルワールドに於いて"最高傑作"ではないかと秘かに時計評論家達の注目を集めたのはシチズンの年差±1秒の(GPSや電波の助けを借りない)純粋クォーツムーブ搭載モデル0100(ゼロイチゼロゼロ)だった。
随分以前にフィリップ・スターン名誉会長に直接会話するチャンスが有って、メカニカルウオッチのハック機能(秒針停止)の必要性について尋ねた事が有った。
「日差数秒の機械式時計にその機能は必要だとは思いません」フィリップは返す刀のごとく回答した。しかし今年発表されたパテックの最新の基幹ムーブメントCal.26-330系は、群を抜く高精度ならではの長所を活かせるハックを、満を持して搭載してきた。それぐらいパテックのメカニカルの精度は向上をし続けたという事だ。逆に精度的に「ハック、本当に要りますか?」というレベルの機械式時計が、世の中にはたくさん有ると言うべきなのかもしれない。
そんなパテックにとってクォーツキャリバーの月差数秒の精度は、必要十分の実用性であり、むしろアンティークの様なオールドクォーツムーブを使い続けるメリットが彼らにとっては優っているのだと思う。それは"創業以来リリースした全てのタイムピースに対して修理・修復の確約"というブランドの根幹を成すとも言える重要な社是である。
もっと簡単に言えば「セイコーの初代アストロン(1969年)はとっくにムーブの交換をするような修理は出来ない」という事だ。ベータ21に早々に見切りをつけたのもその辺りの思惑が有ったからかもしれない。

1971年:アメリカがベトナム戦争に疲弊し、不況が鮮明になってきた。いわゆる8月のニクソン・ショック以降、金と米ドルの兌換が停止される。
米ドルも下落が鮮明になる。70年代半ば1USドル=4.33CHF、70年後半には約1.60CHFと̠マイナス63%もの大暴落となった。この結果米国市場でのスイス時計は3倍価格へと値上がりをした。いつの世も悪い事は重なる様で、スイス時計業界の金融団主導の構造改革の流れ、米景気の悪化と金融危機に加えて"クォーツショック"と言う三重苦に見舞われたのが1970年~1990年頃のスイス時計業界だった。
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上)1972年、世紀永久カレンダー搭載懐中時計を米工業家のコレクターに受注生産品として101,650CHFで販売。関連過去記事あり

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上)ル・サンティエ村とアンリ・ダニエル・ピゲ

この世紀永久カレンダーは超ベテランのパテック社の古参時計師数名が、ル・サンティエのアンリ・ダニエル・ピゲ工房(PPエボーシュ専用のパテックの子会社)にてオーソドックスな職人技によって製作された。尚、パテック フィリップ・ミュージアムにはこのプロトタイプが現在展示されている。

1973年:パテック フィリップ過去最高の売上5000万CHFを達成。
1973年:世界初のデジタル腕時計「パルサー」がハミルトンから登場。
1975年:シチズンが世界初、年差±3秒の高精度クォーツウォッチ「クリストロン・メガ1975」発表。
1976年:シチズンが世界初、太陽光を動力源とするアナログ式クォーツ腕時計「クリストロンソーラーセル」発表
1978年:シチズンが世界初、クォーツでムーブメント厚1mm未満を達成し、実機搭載に成功。
1980年:シチズンが世界最小の女性用アナログクォーツ腕時計を発表。

同時期にはウォルサムがワンクロン・エレクトロニック(時計の詳細不明)やエルジンがデジタル腕時計に進出。アメリカ発の大量生産のノンメカニカルウォッチの攻勢が始まる。
パテックを始めスイスの老舗時計メーカーが天文台コンクール競争に明け暮れていた1950年代後半には、もう既に「腕時計の電子化」の熾烈な開発競争が始まっていた。1957年には米国ハミルトンによる"テンプ駆動式電池腕時計"、1960年には同じくアメリカのブローバが、日差わずか2秒の音叉時計"アキュトロン"を発売している。調べ始めるとこれまた興味深く、時計屋のオヤジとしては捨て置けないが、本稿の主題と外れるのでまたの機会としたい。尚、ご興味が有れば各社HPをご覧ください。
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/Quartz01/
https://www.citizen.co.jp/ir/investor/history.html

1973年:第一次石油危機発生
スイス時計の市場占有率は1977年の43%から1983年の6年間で15%まで下落した。製作拠点としての地位も日本、香港に次ぐ3位へと転落。スイス国内の業界労働者数は9万人から4万人と大量の失業者が溢れかえった。1974年に最高数量を記録した完成時計とムーブメント合計数8,440万個から、1983年には3,020万個へとマイナス64%減少した。
アジア(香港、シンガポール)での低賃金、長時間で過酷な労働環境での時計生産が急速に発達し、スイス時計に壊滅的な打撃が顕著になる。

1977年:そんな最悪状況の中で、パテック社はマイクロ・ローターを搭載した極薄型自動巻ムーブメントCal.240を開発・発表。
当時世界で絶好調のクォーツムーブが全盛期を迎え、さらに薄型化競争が進んだ結果、ケースデザインの自由度が増して、エレガントな時計作りが可能になっていった。
スターンファミリーは、これに対して敢えて機械式で対抗すべく実用性に優れる自動巻でありながら徹底した薄さを追求するムーブメント開発を設計陣に求めた。その答えがCal.240。
発表依頼40年以上が経過した今日も、Cal.240はパテックの基幹キャリバーであり続けている。40年もの長期間に渡って,このムーブメントを搭載して発表された傑作モデルは物凄く多い。
それまで手巻ムーブ(Cal.23-300)でしか薄さを確保しえなかったゴールデン・エリプスの後継エンジンとして、初搭載されデビューする事で、実用性と極薄エレガントケースを両立したタイムピースを、センセーショナルにアピールする事に成功した。
現行ラインナップではセレスティアル系、ワールドタイム、ノーチラスでは通称"プチコン"と呼ばれるRef.5712系がそうだし、ひょっとしたら当店では、生産中止までに納めきれないかもしれない"超"がつく人気のノーチラス永久カレンダーRef.5740/1もこの熟成エンジンを積んでいる。また様々な装飾が施される事で文字盤が厚く成りがちなレアハンドクラフトの多くのモデルも、この傑作極薄エンジンが積まれている。さらに言えば、このキャリバーの構造レイアウト上、4時半辺りにしかスモールセコンドを配置出来ないのがCal.240の特徴だが、装飾性を楽しむレアハンドクラフトに秒針は不要であり、デザイン的に全くハンディとはならない。


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元々、マイクロ・ローター式自動巻の特許はスイスの時計会社ビューレン(Buren Watch Company)が1954年に開発・所有をしたが、1955年にユニバーサルがその特許を買い取ったいきさつがある様だ。またアンリ・スターンがアメリカでユニバーサルの販売権を持っていた経緯からして両社は浅からぬ関係で有ったのかもしれない。
現役レジェンドとも呼べそうな偉大なムーブメントCal.240。当時パテックでその開発に当たったのが、ユニバーサル・ジュネーブでの在籍経験が有った1968年入社の技術部長(ベレ氏)であった事が、半年以内での試作品テストを可能にし、短期間での設計開発完成の要因であったのだろう。
少し不思議なのが、この逸品キャリバーがデビュー時のゴールデン・エリプス以降、1985年の永久カレンダーRef.3940発表まで、これと言った搭載モデルが無かった事だ。
全くの私見ながら、恐らく当時経営者として油が載りだしてきたフィリップ・スターンにとって、圧倒的な自信作でもって高級機械式時計の"復活の狼煙"とすべき作品を模索し、市場投入のタイミングを計ったが為の空白期間だったのではないかと推察している。来年のバーゼルなどでフィリップ・スターンご本人にお会い出来れば、是非自ら確認してみたい。
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上)パテック社と非常に長い信頼関係を持つ、チューリッヒの超老舗時計店"ベイヤー"の225周年(1985年)記念限定モデルのRef.3940。限定本数不明ながら画像の裏蓋刻印からNo.1である事が判る。→参考記事

誕生以来、今日に至るまでCal.240を搭載した名品は数えきれない程ある。ご興味のある方は拙ブログで過去紹介した記事を、ご笑読頂ければ幸いである。
Ref.5230ワールドタイム凛々しい三男2019番外編(希少な手仕事 レア・ハンドクラフト)5740/1G-001実機、やっと来たお宝!ノーチラス永久カレンダー5738R-001ゴールデンイリプス新作珍客!レギュレーター5235G5327G-001永久カレンダー極薄自動巻キャリバー40周年記念モデル-6006G-0015230R・G ワールドタイム第三世代5712/1A-001ノーチラス プチコン ステンレス

文責:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス・フォークス)
PATEK PHILIPPE GENEVE Wristwataches (Martin Huber & Alan Banbery)
PATEK PHILIPPE INTERNATIONAL MAGAZINE Vol.Ⅳ 03 

スターン兄弟の両親(父アンリ・エドアール・スターン、母マリー・ルイーズ・スターン)は、ベルン州の古い家系の七宝細密画家で、いづれもベルンの近郊のグルツェレン(Gurzelen)村の出身であった。ブランドの現経営ファミリーの原点であるから、一体どんな場所なのかとググってみた。
スイスの首都ベルンは過去バーゼル出張の際に宿泊拠点にしていたお気に入りの古都。コンパクトな主要市街が世界遺産登録地であり、徒歩か自転車散策がシックリで、どことなく奈良に似た落ち着ける街である。スイスの観光ルートには入っていないが、個人旅行の際には是非訪問をお奨めしたい。
そのベルンの南方には名峰の誉れ高いユングフラウやアイガーで有名な観光基地インターラーケンやグリンデルワルドがある。この地方への入り口に位置する町がトゥーン(Thun)。 グルツェレン村はその北北西7~8km、ベルンから南南東に約20kmに或る。グーグルマップで見たが、本当に何にもないのどかそうな田舎の村である。良い機会なので、パテックにゆかりの場所をマッピングしてみた。
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ル・サンティエ
:古くからの時計作りで知られたジュー峡谷の村の一つ。1880年創業のヴィクトラン・ピゲ社が100年に渡ってパテック社にグランドコンプリケーション・クラスを含んだエボーシュを供給していた。
ラ・ショード・フォン:ジュラ地方のとても有名な時計産業の町。有名時計ブランドの近代的な工場が立ち並ぶ工業団地の様相を成している。パテックの他にもブライトリング、カルティエ、タグホイヤー等々の大手に加えて、ジラール・ペルゴ、グルーベル・フォーセイ、ジャケ・ドローの様な工房的規模のブランドも多数存在する。
サン・ティミエ:ラ・ショード・フォンの西隣の村?PP子会社のフルッキガー文字盤製作会社が現在パテックの文字盤の大部分を製造している。同社は1860年創業の伝統的な文字盤製作の老舗であったが、2004年にパテックが破綻を回避すべく救済的に買収しスターンファミリーのルーツであった文字盤事業を復活する形となった。

1898年、両親エドアールとルイーズが故郷グルツェレンから直線距離で120km南西のジュネーブに出て工房を開く。1900年頃には6名の職人を擁するようになる。父エドアールは20世紀初頭に病死するが、気丈な母親ルイーズとシャルル・アンリ・スターンとジャン・スターン兄弟によって継続された文字盤製作事業は成功を収めた。
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上、1912年のスターン兄弟文字盤製作所。10年あまりで6名からかなり大所帯になっている。1920年代には近代的な工場を設立している。急成長と言って良いだろう。

1932年、初のリファレンスモデルである96モデルを発表。
※買収の年に、現代に至るスターン時代の象徴と言っても良い"クンロク=96"を発表してきた事が凄いと思う。1926年初代"オイスター"をロレックスが発表したように当時各社がニックネームを採用し始めていた頃である。当初ルクルトムーブメントが積まれたクンロクは、2年後の1934年から初の腕時計用に開発された自社キャリバー12'''120に積み替えられた。

1933年、技術部長にジャン・フィスター(50代半ば)を迎える。1940年代半ばから取締役会会長(様々な年代の様々な肩書?の記述有り)
1934年、スイスで生産される腕時計が懐中時計の2倍となる。
※1930年にはその比率は50%であり、4年で完全に主客が入れ替わっている。パテックの経営刷新は本当に綱渡りだった事が伺える。
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上:クンロクの初出1932年の個体の画像を過去見たことが無い。左端のゴールドモデルはストラップをオフィサータイプのように貫通パイプをビス留しているようだ。真ん中のステンレスの96はセンターセコンド仕様の12'''120キャリバーを積み、スイス南部イタリア語圏ルガノの"SOMAZZI"という時計店とのダブルネーム。右のクロノグラフ130モデルもステンレス製、結構早くから加工の難しいSS素材も使われていたようだ。価格的メリットなのか実用性なのか・・

1934年、アルフレッド・G・シュタイン死去
1935年、アンリ・フェリックス・スターン(シャルル・アンリ・スターンの息子、彫金家1911-2002)が、スターン兄弟文字盤製作所勤務を経て、24歳で入社。
1936年、ヴァルジュ―ベースの自社クロノグラフキャリバー13'''製作。搭載モデルのRef.130の初出は1934年なので、恐らく当初はヴァルジュ―エボーシュでスタートしたものと思われる。
※その他にも1934年~1939年のたった5年間で10種類のニューキャリバーが矢継ぎ早に製作された。これは当時各時計会社が得意分野の時計に事業集中する傾向の中で、パテックは逆に幅広い商品群の生産を目指したからである。またかつて懐中時計で成功したのと同様に、腕時計でのコンプリケーション化を目標に据えていたからである。

1937年、アンリ・スターン26歳でアメリカに渡り、パテック フィリップ・アメリカ社長代理に任命される。以降20年以上アメリカ市場を統括する。
1937年~1939年、画期的な新素材を採用したニヴァロックス髭ゼンマイやベリリウム青銅テンプの搭載が進み、多湿なエリア(主にアメリカを想定)での調速装置の酸化や帯磁への対策が進む。
1937年、飛行機による新しい時代の到来を見越して初めてのワールドタイム発表
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上:最初のワールドタイム腕時計Ref.515 HUとマルチタイムゾーン機構の開発者である時計師ルイ・コティエ(どことなく英王室の誰かに似ているような・・)

1938年、アンリ・スターンの長男フィリップ・スターン(現パテック フィリップ名誉会長)誕生
1939年、創業100周年、社員数107名規模
1939年ー1945年、第二次世界大戦勃発。
※アンリ・スターンが渡米するまでの数年間、新生パテックは北米及び南米の市場が崩壊していた為、主戦場を仏・西・伊・英に戻して立て直しを試みた。経営状況は少しずつ好転しつつあったが、第二次世界大戦が始まると戦場となったヨーロッパ市場が未曽有の混乱に陥る。この状況をヨーロッパは戦後も何年も引きずった。パテックはアンリが精力的に営業活動を北米と南米で行い、戦後の好景気への備えを着実に行っていった。一方、スターン兄弟には文字盤以外の時計製作のノウハウが無かったにも関わらず、事業継承当初から上質な自社主導のエボーシュ開発を志向し、その実現策として経験豊かで優秀なマネージャーを技術部門のトップとして外部から招聘する。これらの市場の選球眼、人材登用と投入、そしてそのスピード感は素晴らしい経営センスだと思う。

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上:事業継承後、エボーシュの自社化を進めながらも外部エボーシュも活用して、腕時計に於ける複雑機構の先駆者となる事でブランドの地固めがなされた。

1941年、アンリ・スターン中南米を訪問。永久カレンダークロノグラフ1518モデル生産開始
1942年アメリカ参戦、アンリ・スターンがユニバーサル・ウォッチのアメリカ輸入代理店となる。永久カレンダー1526モデル生産開始
1944年、シャルル・アンリ・スターン永眠
1944年、天文台コンクールのカテゴリーに腕時計(ムーブメント直径30mm以下)が加えられる。
1946年、アンリ・スターン・ウォッチ・エージェンシー株式会社設立(パテックとユニバーサルの合衆国の独占的ディストリビューター)
1948年、アンリ・スターンが早くもクォーツの将来性を見越して電子部門を創設した。
1949年、1951年ジャイロマックス・テンプの特許取得。
※パテックの開発した独自技術は本当に寿命が長い。70年後の現行モデルの機械式腕時計の全てが、この画期的なテンプを採用している。

1953年、バーゼル産業見本市で自動巻機構搭載ニューキャリバー12'''600 ATを積んだ2526モデルを発表。
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上:パテックの自動巻導入は遅めで1953年4月のバーゼル産業見本市だった。特許取得した自動巻機構とジャイロマックス・テンプ、さらにソリッドゴールド・ローターを備えたニューキャリバー搭載のRef.2526として発表された。尚、この新しいパッケージが主力エンジンとして製品への搭載が盛んになるのは1960年開発のCal.27-460(1960年)からとなる。

1950年代後半、盛んに対磁時計が開発される
1950年代半ば、アルベール・ジルベール(1930年生まれ)が宝飾工房の責任者となる。
1958年、ニューヨークとヨーロッパ(ロンドン、パリ)を結ぶ大西洋横断のジェット旅客機による定期路線就航開始
1958年、電子部門が世界初のミニュチュア・クォーツ・クロノメーター(クロック)を完成。
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上:1958年撮影の47歳のアンリ・スターンと技術部長ジャン・フィスタ―

1959年、ジャン・フィスタ―社長(何時から社長なのか未記載)82歳で引退、アンリ・スターンが48歳で社長就任、当時の日産は23個(年産6,000個)
1959年、ジュネーブの時計師ルイ・コティエが発明したトラベルタイム機構をパテックが特許取得
1960年、ニューヨークでアルベール・ジルベールの功績により3年連続で「ダイヤモンド・インターナショナル・アワード」受賞
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上:電気の普及、ジェット旅客機の就航が新しい実用時計のニーズを生んだ時代。一方で独創的なデザインや宝飾性に富んだ時計作りも同時に進行した世界的好景気の時代。

1960年代、時計に於ける七宝装飾技法の衰退が顕著
1963年、西ベルリン(当時)市長が公式訪問をしたジョン・F・ケネディにパテック フィリップ製のピース・クロノトーム(クォーツクロック)を贈呈。
1964年、ラ・ジャンクション工場落成、創業125周年
1966年、パテックが天文台計時精度コンクールへの参加を打ち切る。精度コンクール自体も1968年に終了。
※PP正史には1900年代初頭から此処に至るまでの他の時計メーカーを全く寄せ付けない輝かしいコンクールでの成績が列挙されている。特に1944年~1966年迄は優秀な時計師(精密歩度調整師)のメンバー個別の成果を丁寧に紹介している。本稿では割愛するが、当時のパテックのアンティークピースの高騰理由の一つである事は間違いなさそうだ。

1967年、バチカン市国のローマ法王庁に日差1,000分の1秒の電子マスタークロックを納品する。
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上:1969年発表のセイコー初代アストロン成功の陰には他ブランドのクォーツや音叉時計等の開発ストーリーがあった。アメリカのブローバやスイスのロンジン、ジラール・ペルゴ、CEH( Centre Electronique Horloger/電気時計研究)が知られるが、パテックもクロックに関しては結構頑張っており、新時代到来を見越していた様だ。

1967年、女流七宝細密画家シュザンヌ・ロールがパテックで七宝細密画を描き始める。2002年迄在籍。
1968年、ゴールデン・エリプス発表。10年間ベストセラーとなる。
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上:1950年代後半以降、アンリ・スターンはデザインと美の境地を開いてゆく。それはデザイン性の高い宝飾や革新的で大胆なケース形状や文字盤の採用、または伝統的な七宝技法の継承努力など多岐に渡っていた。

1969年、老舗ジラール・ぺルゴ社(1791年創業)がスイス時計業界で初の株式上場。クォーツ時計の量産にも成功。
1969年、機械式時計最後の開発競争であった自動巻クロノグラフが各社から発表される。セイコー、ゼニス、4社共同(ブライトリング、ホイヤー、ハミルトン・ビューレン)
1969年セイコーウォッチ株式会社がクォーツ駆動腕時計初代「アストロン」を発売
1970年、家族企業ホイヤーを創業者の曾孫であるジャック・ホイヤーが株式公開する。
1970年、フィリップ・スターンに長男ティエリー・スターン(現パテック フィリップ社長)誕生

※「第二次世界大戦に続いた四半世紀は、パテック フィリップの黄金時代であった。」(PP正史203P)とあって、まずアメリカで好景気は始まり、次いでドイツ・フランス・イタリア等のヨーロッパでも経済が再生された。テレックス、ジェット旅客機、テレビなど画期的な文明の利器が誕生した。これらの副次的産物として耐磁性能や容易な時差表現(トラベルタイム)が、腕時計の新たな機能として開発されるようになった。しかしながらこの時代のパテックの最大の技術革新は1950年前後の特許ジャイロマックス・テンプの発明だろう。1960年代後半にマイクロステラナットを開発したロレックスを例外として、他の高級時計ブランドが、2000年代以降こぞって採用し始めたフリースプラング方式の圧倒的な先駆者であった。
PP正史195Pでは文献を引用して、第二次世界大戦直後の1947年・1948年の合衆国向けスイス時計輸出価値は開戦前年1938年の6倍に増加とある。また1940年~1960年代初めの間に生産されたパテックの約半分が、裕福なアメリカ人に国内外で購入され、1965年頃までドイツ・イタリア・イギリスでの販売は難しかったらしい。

今回の章は殆ど近代史のおさらいだった。スターンファミリーの時代はもっとまとめやすいと思っていたが、この時期は谷から始まって山が来て、また谷の予感が最後に来ている。その間、加速度的な文明と技術革新に呼応してパテックは躍進し、アンリ・スターンは実に多方面に経営手腕を発揮するので、幹と枝と葉っぱがコンガラガッテいて正直大変だった。

文責:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス・フォークス)
PATEK PHILIPPE GENEVE Wristwataches (Martin Huber & Alan Banbery)

今回は二人の創業者没後(1894年)から、現在経営の舵取りをしているスターンファミリーが経営権を取得する1932年迄の40年間弱のストーリー。
1901年にパテック フィリップは株式会社へと法的な枠組みを変更する。一応、ジャン・アドリアン・フィリップの子孫が社長を歴任してゆくが、複数の役員による合議制スタイルが取られたようだ。世間一般的には個人商店から手堅い経営陣が円滑に運営をする企業として捉えられていたのかもしれない。

ところが、この時期は創業者の有形無形の財産を食い潰しながら表面的には栄光の時代を築きながら、リスクを取れるリーダーの不在から、時代の流れを直視せずに、新しい市場開拓や技術革新への挑戦も怠って、最終的にはアメリカ発の世界恐慌で止めを刺され、売却の危機に至る正にパテック フィリップ ブランドの栄光と挫折の時代である。

「パテック フィリップ正史(以下PP正史)」ではこの時期の栄光の側面を前編として、挫折の部分を後半に紹介している。何度も読み返すのだが、このジキルとハイドの様な両面性は交互では無く、同時進行しているので、本稿では明暗の側面にかまわず時系列で年表風に編集し直してみた。
1872年:ゴンドーロ&ラブリオ社との取引開始(※活発な取引は1900年以降だった様だ)
1882年:ジャン・アドリアン・フィリップの息子ジョセフ・エミール・フィリップ(体質虚弱な時計師であった)社長就任。
※当時ジャンは60代後半、ジョセフは20代前半。ジャンは娘婿を補佐役にしたようだが、ジェネレーションギャップが凄い!
1884年:ジュネーブ天文台の計時精度コンクールでパテック フィリップが首位から5位を独占。
1885年:アントワーヌ万国博覧会で選考審査員を務めたジャン・アドリアン・フィリップが出品された時計にパテック・ブランドの偽造品を発見。
1886年:ジュネーブ・シールの採用開始
1888年:低グレードの時計ブランド「ケタップ」の製造開始。
1892年:40年近く賃借していたグラン河岸ローヌ通り168番地を自社物件として購入し、当時の先進ビルへと大改装実施。
同年:ジョセフ・エミール・フィリップが米国の主要顧客ティファニー他を訪問。

下画像:ベルグ河岸から1853年に移転した賃借時代の工房。2フロアを使用し水力で工作機を稼働させた。隣のホテル「クロンヌ」は1871年の大火事で焼失したが工房は焼けなかった。グラン河岸ローヌ通り168番地(後に41番地に家屋番号変更)
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1892年にパテック、フィリップ社は、それまで40年近く賃借していた工房を自社物件として購入。著名建築家により内外装から電気による照明、セントラルヒーティングが導入されるなど最先端の設備とスタイルで見事な改装がなされた。
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上画像:1800年代末の自社物件となった新社屋。下写真とほぼ同時代の様なので完成予定イラストだったのかもしれない。屋上の時計周りの仕様が異なっている。
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1892年頃:米ウイスキー王ジャック・ダニエルがスプリット秒針搭載ミニット・リピーターNo.90 455所有(下画像)
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1893年:シカゴ万博博覧会に出展
1894年:創業者ジャン・アドリアン・フィリップが79歳で死去。
1895年:アルフレッド・G・シュタイン(ティファニーの元社員)を米国代理店とする契約調印、6年後の1901年には役員就任。

※1870年から1900年の30年間でアメリカ合衆国の国富は4倍になり、実業界に少数の絶大な富を手にする大立者が相次ぎ登場した。アンドリュー・カーネギー(鉄鋼)、ヘンリー・クレイ・フリック(カーネギー共同経営者)、ジョン・D・ロックフェラー(石油)、J・P・モルガン(証券)、ヘンリー・ゴールドマン(証券)、ヘンリー・フォード(自動車)、ジェームズ・ウォード・パッカード(自動車)、ジャック・ダニエル(ウイスキー)、ヘンリー・グレーブス・ジュニア(鉄道・御曹司)

1900年:パリ万国博覧会に出品された仏:パリのルロワの25種類の複雑機能付き懐中時計でグランプリ受賞(当時で世界最高の複雑時計)
1901年:パテック,フィリップ社(Patek, philippe & Cie)を資本金160万スイスフラン(CHF)で株式会社化し、社名を、伝統ある時計メーカー・パテック フィリップ株式会社(Ancienne Manufacture d'Horlogerie Patik Philippe & Cie,S.A.)に変更した。複数の古参社員が役員に就任。
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上:1895年から1934年迄アメリカ市場を統括したアルフレッド・G・シュタイン(左端)と役員達。当時社長をバトンタッチしていったジャン・アドリアン・フィリップの子孫はPP正史に名は有れど、どこにも写真が無い。何となく状況が読めてくる。

1903年:低グレードの時計ブランド「ケタップ」の製造中止
1904年:ルイジアナ万国博覧会へ出展
1907年:ジョセフ・エミール・フィリップ社長が40代半ばで永眠、その息子アドリアン・フィリップ(やはり時計師からスタート)が社長業を継ぐ。

※1900年頃から1920年代半ばにかけては二つの潮流が有った。一つ目は南米ブラジルのリオにあったゴンドーロ&ラブリオ社顧客向けの特注時計クロノメトロ・ゴンドーロと呼ばれる時計(懐中時計から徐々に後半は腕時計)の販売が盛況となる。
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上:1900年代初頭は懐中時計、1920年代はシンプルな腕時計がクロノメトロ・ゴンドーロとして製造販売された。
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上:ゴンドーロ&ラブリオ社はリオのブルジョア階級顧客を「パテック フィリップ・クラブ」として組織化し、巧みな販売戦略で当時790CHFのクロノメトロ・ゴンドーロ・ウォッチを拡販した。

しかし、第一次世界大戦(1914年-1918年)はブラジルにも市場の停滞をもたらしビジネスも急速に不調になっていった。もう一つは女性用で先行していた腕時計が男性にも普及していった時代で、カルティエが製作したアルベルト・サントス・デュモン(ブラジル)の飛行船乗船用腕時計や第一次世界大戦で将校が求めた懐中時計にラグを溶接したオフィサーと呼ばれた腕時計など即効性かつ実用性が追求された必然の結果であった。

1922年:1923年にかけてリオデジャネイロ万国博覧会に出展し、グランプリを受賞。

※時計業界に於ける腕時計(特に男性用)への舵の切り換えにパテックは乗り遅れてしまう。1914年の第一次世界大戦開戦時の同社の腕時計生産比率はたったの7%に過ぎず、その大半は婦人用であった。1920年以前に製造された男性用腕時計はほぼブラジルのゴンドーロ&ラブリオ社向けであった。1924年に於いても腕時計はパテックの生産量全体の28%でしかなかった。このころからポツポツと複雑機能付きの時計も作り始めるが、30年以上も前に作られた婦人用時計の改装版であったり、ヴィクトラン・ピゲ・キャリバーやルクルト等の外部サプライヤー製エボーシュに頼ったものであり、それは質・量ともに不十分なものでしかなかった。1920年代後半には時代遅れになりつつあった高級な懐中時計に注力し始める。そのことは米国の著名な時計コレクター向け複雑時計の開発と納入の事実から明らかである。1930年スイス時計産業全体で腕時計比率が50%に達していたが、パテックのそれは僅か13%でしかなかった。
さらにこの時期、最大市場のアメリカを長く担当していた役員のアルフレッド・G・シュタインは病身で高齢でもあり、新たな腕時計向けの市場開拓は困難であった。さらに彼は非常に頑固で短気であったらしく、スイス本社への忠誠も衰えてきており、後進への権限移譲にも消極的であった。
このように後々に客観的な視点から振り返れば、明らかな時代の変化や危機の芽は見えるが、オンタイムでマネージメントに携わる雇われ経営者達の場合、ある者は目を反らし、また別の者は目を塞いでしまうのが世の常なのかもしれない。

1923年:時計収集家ジェームズ・ウォード・パッカード(1863年-1928年)デスククロック(No.197 707永久カレンダー、ムーンフェイズ、8日巻)を購入。
1927年:ジェームズ・ウォード・パッカードが12,815CHFで懐中時計(No.198 023日昇・日没、均時差、ミニット・リピーター、ムーンフェイズ、永久カレンダー、PP初の星座表)を購入、。翌1928年にパッカード永眠。
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1927年:時計収集家ヘンリー・グレーブス・ジュニア(1868年-1953年)パッカード所有のデスククロックに外観が酷似する時計(No.197 707永久カレンダー、ムーンフェイズ、8日巻)を常に贔屓としたティファニーから購入。
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1929年10月ウォール街大暴落

※暴落後一週間で300億米ドル超の損失があり、諸説で「第一次世界大戦でのアメリカの損失額」に等しいとある。

1931年:給与削減開始。このころ在庫のゴールド・ケースを溶かして売却し給与に充てていた。ゴンドーロ&ラブリオ社の債務が65,000CHFを超加する。
1932年:遂に売り出されたパテック フィリップ株式会社を文字盤サプライヤーであったスターン兄弟文字盤製作所が同年6月14日に買収。
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※これに伴い社名は、現在のパテック フィリップ株式会社(Patek Philippe S.A.)とされた。この買収、当初は完成時計メーカーでは無くムーブメントのみを生産供給するエボーシュであったルクルトが有力であった。結果的にスターン兄弟の買収は、現代パテックのシンプルだけれど手抜きの無い美しく比類の無い文字盤作りに帰結している。

1933年:ヘンリー・グレーブス・ジュニアが1932年秋に完成した24個の複雑機能を備える超複雑な「グレーブス・ウォッチ」を6万CHFで購入。
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1933年:アドリアン・フィリップがスターン兄弟を筆頭とした株主により総会で社長を解任される。
1934年:ゴンドーロ&ラブリオ社の未払債権回収不能決定。

※会社の存亡の危機と、ブランド史上最高に複雑なコレクター向け超絶懐中時計の完成と納品が、ほぼ同時期と言うのは皮肉が効きすぎていて滑稽ですらある。5年の歳月とジュー渓谷に名を馳せた名工達を結集して作られた他力本願の結晶。勿論それはそれで(自社主導製作である限りは)素晴らしいマニュファクチュールの到達点ではあるが、現代に置き換えれば
「Ref.5175グランドマスター・チャイムの様なレア物は、天才的な独立時計師達に頼んででも一握りのマニア向けに作るけれど、市場性のあるラグジュアリー・スポーツのノーチラスやアクアノートは適当なレベルで作ったが為に、競合に勝てなかったので本気で作りません」
と言う状況で、手厳しく言えば「裸の王様」か「堕ちた偶像」と言うべきだろう。

本稿を書いていて印象的だったのが、"髭"。創業者2名も立派な髭を蓄えていたが、この複雑な中継の時代もほぼ髭自慢のオンパレードだ。ところが最後の方になるとパッカードやグレーブス、次代を担うスターン兄弟には髭が無い。リオのパテック フィリップ・クラブのピクニック風景も良く見ると、若手には髭無しがポツリぽつりと混じっている。これも時代の流れを表している様で興味深い。

文責:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス フォークス)

例年の事ながら、この時期はブログ端境期でネタ不足に悩まされる。そろそろ入荷し始めるはずの新製品が次々来てくれれば、実機編として紹介できるのだけれど・・
そんな中でやってきたのが2年前にご紹介したPATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY」日本語タイトル「パテック フィリップ正史」の日本語翻訳版。 544ページに及ぶ長編なので、さすがに英語版は多数掲載されている写真等を眺めているしかなかった。日本語訳に関してはパテックオーナーの楽しみである「パテック フィリップ・インターナショナルマガジン」をずっと翻訳されているジュネーブ在住の小金井良夫氏の訳文をベースに、PPJ(パテック フィリップ ジャパン)のスタッフが1年以上かかって手を入れた力作と聞いた。原作はロンドン在住で芸術をテーマに幅広く執筆をされているニコラス・フォークス氏。インターナショナルマガジンの時計関連記事の常連執筆者でもある。2011年にスイス・パテック社から執筆打診を受け、5年の歳月を費やして2016年にイギリスで初版が発行された。
3日ほど掛けてザっと読破したが、とても一度では収められないメモリー&CPUの初老脳ミソなので、内容的にブログに向かないのを敢えて承知で何度かに分けてあらすじを紹介する事にした次第。ほぼ自分自身の為の備忘録用である。
尚、当店初め各正規店経由でのご購入も可能なので、ネタバレ御免の方は本稿は飛ばしていただきたい。2019年9月現在の書籍価格は税別24,200円、現在在庫切れ入荷待ち。
まず最初に創業年1839年から2015年10月までの約175年に及ぶブランドの歴史を、自分なりザックリと整理してみた。まずは現経営ファミリーのスターン家による1932年からの経営権移行を最大の節目としてその前と後に分けたい。そしてその前半期は創業者の一人であるジャン・アドリアン・フィリップの死亡した1894年以前の創業とブランド確立期とそれ以降に分けたい。後半期のスターンファミリー時代はその時々の経営状況や時計業界の推移で分けるよりも経営の主軸を担ってきたファミリーの4世代の主役時代で分割出来そうだ。

で、初回は1800年代初頭からの約100年弱を足早に辿ってみたい。創業期はとても大事なのだろうけれど、時代が古すぎるし、ほぼ馴染の無いナポレオン時代の東ヨーロッパが舞台であり、ほぼ懐中時計全盛期なので正直なところ半眼になってコックリする事、半端では無かった。
創業者の一人アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック(1812年、ポーランドにて誕生、本名アントニ・パテック・プラヴヅツから1843年頃ジュネーブで改名)は、皇帝ナポレオン率いるフランスが攻め込んだ超大国ロシアに翻弄されたポーランドの独立の為に、若き日には革命に身を投じる軍人であった。しかし1831年にポーランド革命は頓挫し、祖国を追われるようにパテックは19歳で亡命を余儀なくされた。
一時期フランスで植字工を経験し、1835年にはスイス・ジュネーブ州レマン湖岸の村で絵画を学ぶ内に、近隣のジュネーブ市の中心商業である時計産業に興味を持つようになった。彼はジュネーブ市に於いてポーランド人社会での交友関係を通じて20個の時計を販売する事からビジネスをスタートさせた。1839年5月1日にやはり東欧からの移民であり時計の製作技能を持つフランソワ・チャペック(チェコ・ボヘミア生まれで後にポーランドに帰化)と共同で小さな時計事業をジュネーブ市内のベルグ河岸29番地(ローヌ河北岸)でパテック、チャペック社をスタートさせた。同年7月にはチャペックの紹介で伴侶を得たパテックは、ポーランド人社会を基盤に徐々にビジネスを発展させる。しかし時計製作を担当していたチャペックの浪費癖等の理由から両者の関係が悪化し、1845年には6年間の契約期間満了を持って二人は決別した。
相前後して、将来の市場拡大の為に1844年12月、パテックはパリの工業製品見本市であるパリ産業博覧会に出展した。この際に当時画期的な発明として産業博覧会の銅賞を受賞した「鍵なし巻上げ機構」を考案した時計師ジャン・アドリアン・フィリップの存在を知る。フィリップは1815年にフランス人時計製作者の息子として生まれ、父から時計製作の手ほどきを受けたのち単身ロンドンで修行を積んだ。帰国後は政府認可のマニュファクチュール工房を、ベルサイユに開設して時計製作をしていた。
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チャペックと決別した1845年、パテックはパリでフィリップと共同経営契約の交渉を開始し、ベルグ河岸15番地に新しいパテック社を設立した。同じ年にフィリップは「鍵なし、リューズ巻上げ・時刻合わせ機構の特許」を登録した。
尚、馬の合わなかった最初のパートナーのチャペックとジャン・アドリアン・フィリップは共に時計師であったが、両者には決定的な違いがあったようだ。チャペックは「ルパサージュ」と呼ばれる購入エボーシュ(ムーブメント)に仕上げと精度向上のみを施す職人的時計師であったのに対し、フィリップはムーブメントを設計し製作する創造的時計師であり、常に最新の技術動向を追い求め、技術革新への情熱を持っていた様である。1850年にパテック社は自社に工作機械を導入し、エボーシュの製作を開始している。
この1840年代後半の記述は、大層に難しく書き辛いのである。1848年にフランスで始まったヨーロッパで吹き荒れた革命の嵐、その経済的混乱に伴う創業間もないパテック社の経営危機、それでも革命の余波によるポーランド独立を願って止まないパテックの背反する想い。パテック氏の性格と言うのは中々興味深い。経営者に必須の先見の明はある。同時に自己顕示欲も強かったようで、新しいパートナーのフィリップ氏ともその点で結構ギクシャクしたところが有ったようだ。ともあれ1851年1月には社名が「パテック、フィリップ社」へと変更された。
1851年のロンドン・ハイドパークで開催された世界初の万博(6ヶ月、600万人集客)に出展したパテックは決定的大成功を収めた。その象徴はヴィクトリア女王と夫君で万国博覧会自体を発案したアルバート公によるパテック フィリップ製懐中時計購入であり、博覧会からパテックには金メダルが贈呈された。結果的に画期的なマーケティング手法となった博覧会事業への参加・出展は今現在でも継続されている経営方針となっている。
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ロンドン万博の成功からスタートした1850年代は、パテック フィリップにとって順調に事業が拡大した。1853年には8年で手狭になったベルグ河岸15番からローヌ河対岸南側のグラン河岸に位置するローヌ通り168番地(現在は本店ブティックであるジュネーブ・サロン)に工房を移転した。しかしパテック フィリップ社は好調であったが、1850年代もヨーロッパ自体の景気は安定せずスイス時計産業は順調では無かった様だ。
パテックは既にニューヨークのティファニー等の取引先が有り、1849年にカリフォルニアで始まったゴールドラッシュに湧くアメリカへの長期単身出張に1854年11月中旬に出発した。翌年の4月頭にロンドンに戻るまで、彼はニューヨークを皮切りに東海岸と中東部の主要都市を精力的に訪れている。マサチューセッツではウォルサムの近代的な蒸気機関を動力源とした安価かつ大量生産される時計製造工場を視察し、高品質で美的かつ独自性を有する高級時計メーカーとして生き残る経営方針を確信している。市場調査と営業を目的とした出張だったが、盗難や移動中の事故などで相当に肉体的にも精神的にも非情にタフな旅で疲労困憊に陥っている。それでもこの大国には将来性があり、限られたアメリカンドリーマーが有する巨万の富の存在を知り、非常に有望で大事な高額品マーケットである事に気づいていた。
この悲惨な旅の経験にもかかわらず1858年には、さらに広範なヨーロッパ各地への長期出張を敢行し営業活動を行っている。アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックは過酷なアメリカ出張で患ったひどいリウマチに悩まされながらも、常に新しいマーケットと顧客を渇望する熱心なビジネスマンだったようだ。

ビジネスパートナーのジャン・アドリアン・フィリップは、創造的時計師として様々な改良をアイデアし自身もしくは法人として数々の特許を登録した(1840年代後半~1880年代初頭)。
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また1860年代には永久カレンダー機構等を搭載したグランドコンプリケーションの生産も始まり、多くがアメリカ向けに出荷された。さらに1868年にハンガリーの貴族夫人の発注によってスイス製初の腕時計も作られている。
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そのころ事業は順調に伸びていたが、1872年にはアメリカの最重要顧客であったティファニーが、パテック社のお膝元であるジュネーブのコルナバン駅直近に米国流のハイテクな時計工場を建設した。しかし、この違和感のあると言わざるを得ない大胆な挑戦は4年で頓挫する。その跡片付けに関わったパテック フィリップ社には、その名残としてジュネーブ本店に当時の巨大な金庫が飾られている。そんな経緯が有りながらも両社のビジネス上の繋がりは強固で、特別なパートナーシップは今日も続いており、現在でも生産されているパテックとのダブルネームのタイムピースは、知る限りでティファニーだけしか無いはずだ。
自身の名前を冠したビジネスの名声を獲得する事に邁進した創業者アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックは1877年にこの世を去る。しかし彼の息子レオン・ド・パテックは、パテックと言う姓の使用料を年収として受け取るのみで、同社の経営を引き継ぐ事は無かった。さらに17年後の1894年には、もう一人の創業者ジャン・アドリアン・フィリップが穏やかに永眠した。
このフィリップの晩年20年間にもパテック フィリップ社は様々な博覧会や万博に驚異的なタイムピースを出展し、その地位を不動の物とした。その一方でウォルサムを代表としたアメリカの安価で大量に生産される時計への対抗手段として、ジュネーブ天文台の計時精度コンクールが1873年から開催され、パテックは精度における圧倒的優位性を発揮し続けた。
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当時のもう一つの厄介な問題は、パテック フィリップの偽造品の横行であった。この対策の一つが1880年代の終わりにカラトラバ十字を商標登録する事であった。またジュネーブ州としても州内で製造され、新たに発足された検査機関で良好な品質基準を満たした時計にのみ、州の紋章刻印を許可する制度を敷いた。いわゆる「ジュネーブ・シール」の始まりである。

書きはじめは、もっと凝縮するつもりだったが、あらためてエピソードの多さを思い知らされた。創業期の"生み"の苦しみや、戦乱による不況にも何度も経営は揺さぶられている。1830年代からはイギリス以外の国々で産業革命が始まった時代背景にあり、近代的な大量生産に成功するアメリカが重要な市場になると同時に、競合として台頭してきたジレンマもあったようだ。普通この手のブランドストーリーは好調時(山)が主で、不遇時(谷)を従として綴られる事が多いが、この"正史"は苦境を主体に書かれている気がする。共同経営者の有り方にも赤裸々で歯に衣着せぬ表現が多々されており興味深い。ともあれ二人の創業者時代の後半生は、確固たる高級時計ブランドが確立され、良好な経営状況であった様だ。

文責:乾
参考・引用:PATEK PHILIPPE THE AUTHORIZED BIOGRAPHY パテック フィリップ正史(Nicholas Foulkes ニコラス フォークス)

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パテック フィリップ展を開催いたします。今回はコレクションの中核であるコンプリケーションを代表する年次カレンダー、ワールドタイム、トラベルタイム等を中心に展示いたします。レディスも最新作であるTwenty~4 Automaticを始め普段はご覧いただけない品揃えで皆様をお待ちいたします。

とき:2019年8月31日(土)・9月1日(日)11:00-19:00
ところ:カサブランカ奈良 2階パテック フィリップ・コーナー

出品予定モデルをピックアップでご紹介(都合により変更になる事が有ります。予めご了承ください)

Ref.5320Gー001 自動巻永久カレンダー

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一昨年発表の永久カレンダー。凝ったラグ形状やヴィンテージ感漂う立体的なボックスサファイアクリスタルなのにお得感の有る嬉しい価格設定。此処の所ずっと年次カレンダー専用の顔だったダブルギッシェスタイルが採用された古くて新しい永久カレンダー。
ケース径:40mm ケース厚:11.13mm ラグ×美錠幅:20×16mm 
防水:3気圧
ケースバリエーション:WGのみ 
文字盤: クリーム 色ラック 夜光塗料塗布ゴールド植字インデックス
ストラップ:ブリリアント(艶有)・チョコレートブラウン アリゲーター
バックル:フォールデイング(Fold-over-clasp)
価格:お問い合わせください。
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Ref.5205G-013 自動巻年次カレンダー_DSC9474.png

この時計については、2017年春の初見前の期待感の大きさが災いして、現物の印象を随分低く見てきた時期が有った。しかし今現在は素直に美しく深みのある文字盤カラーは、パテックの現行ラインナップに増えている青色系のダイアルの中で個人的には、一、二を争う出来だと思っている。
ケース径:40.0mm ケース厚:11.36mm ラグ×美錠幅:20×16mm 
防水:3気圧
ケースバリエーション:WGRG別ダイアル有
文字盤:ブルー ・ブラック・グラデーション、ゴールド植字インデックス
ストラップ:ブリリアント(艶有)・ブラック アリゲーター 
バックル:フォールディング(Fold-over-clasp)
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Ref.5230G-001 自動巻ワールドタイム
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近代ワールドタイムとしては第三世代(2016年発表)となるこの時計は、初代(2000年、Ref.5110)や二代目(2006年、Ref.5130)と比較して最も筋肉質で引き締まった印象を持っている。エッジの効いたケース形状、微妙なダウンサイジング、絞り切った針の形状、複雑で凝った今迄にないセンターギョーシェパターン、と全方位から隙の無いイケメンウオッチに仕立てられた。歴代で最もビジネススーツに合わせたいのがこの三男坊。
ケース径:38.5mm ケース厚:10.23mm 
ラグ×美錠幅:20×16mm 防水:3気圧
ケースバリエーション:WG,RG,
文字盤:ラック・アントラサイト、ハンドギョーシェ ゴールド植字インデックス
ストラップ:ブリリアント(艶有)・ブラック アリゲーター
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新製品 Twenty~4 Automatic Ref.7300/1200R-010
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新製品 Twenty~4 Automatic Ref.7300/1200A-001
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女性だけのシリーズであるTwenty~4Ⓡ。デビューから約20年を迎え新たにラウンドシェイプ(丸形)にしてカレンダー搭載の自動巻のTwenty~4 Automaticが新たにラインナップ。アラビア数字のインデックスや針等も全てが視認性向上を最優先したデザイン。大人の女性の為に誕生した究極の実用レディスウオッチ。
ケース径:36mm ケース厚:10.05mm 防水:30m
ダイヤ付ベゼル(160個 約0.77カラット)     
ケースバリエーション:RG(別文字盤有)、SS(別文字盤有) 
文字盤:ブラウン・ソレイユ 夜光塗料付ゴールド植字アラビアインデックス
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イベント・特典

1、特別イベント:ポルシェ試乗会
多くのパテックオーナーにも愛されている高級スポーツカー"ポルシェ"。最新ラインナップの試乗車を当店駐車場にご用意します。真のスポーツカーの走りをお試しください。

13:00~18:00 カサブランカ奈良駐車場にて受付
ご協力店:奈良県ポルシェ正規販売店 PORCHE Center Nara ㈱タジマモーターコーポレーション

2、ご成約特典:カサブランカ奈良 ミシュラン
期間中、ご成約で、当店お勧めの注目レストランでご利用いただけるぺアお食事券をプレゼントいたします。
ご協力店:懐石/奈良而今(ナラニコン)、フレンチ/la forme d' eternite(ラ フォルム ド エテルニテ)、イタリアン/banchetti(バンケッティ)

文責:乾

此処1年ぐらいでノーチラスとアクアノートの人気がさらに過熱して来た様に思う。それまでは限られたSS(ステンレススチール)モデルだけに集中していたが、そこが無理なら別のSSモデル、それも無理なら18金モデルとまるで連鎖し伝染するかのように人気と飢餓感が、縦に横に広がってきた。さらには女性モデルへもじわじわと影響が出て来ている。恐らく当店だけでなく他の正規店にも同じか、それ以上に希望者が殺到していると思われる。
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これに伴って毎日のようにお電話やメールで国内外からノーチラスを中心に在庫確認と予約の可否へのお問い合わせを頂いている。3年ほど前に『あぁノーチラス、されどノーチラス』とのタイトルで一番人気のRef.5711/1A-010(ブラック・ブルー文字盤)の紹介と予約に関する方針めいたものを書かせて頂いた。実は今現在でもこの記事へのアクセスは非常に多い。トータルページビューでは断トツぶっちぎり状態である。この時計への皆さんの情熱が想像以上に熱いのだろう。

あまりにもお問い合わせが多いので改めて当店の方針を説明させて頂きます。まずシリーズ等に無関係で全てのパテック フィリップのモデルに関して順番をお約束する予約はお受けしておりません。ただいつでも、どなたでも店頭に限ってお名前、ご住所とお電話番号等を頂戴するご購入希望の登録は、基本的にご本人様からは受け付けております。ただ販売の優先順位は、過去及び将来の当店でのパテック フィリップご購入実績(本数・金額等)から判断させて頂いております。
年間の入荷本数はモデル毎にほぼ決まっており、実績顧客様からの新たなご希望数が入荷数を上回っているモデルは、実績顧客様であっても全ての方には販売出来ないかも知れません。必然的にご登録だけのお客様への販売はさらに難しくなってしまいます。
この説明で再検討される方も、取り合えず来店され登録される方もおられます。誤解をされては困りますが、たまたま登録のための来店時に店頭で出会った別のモデルを購入されて実績顧客としてウエイティングされ、その後に登録モデルも購入と言う様なケースも無いわけではありません。ただし、決して無理にお奨めする気はありませんし、また時計は無理やり購入するものでもないでしょう。時計や車は"出会いと縁"が大切だと思います。
ご注意頂きたいのは他の正規店様とのダブルブッキング。パテック フィリップ ジャパンと我々正規店との受発注の詳細は控えますが、複数の店舗から同時期に同じ希望者名でのオーダーは受け付けられずキャンセルとなる事があります。明らかにあの店の方が早いと確信めいたものを持てない限り、安易なオーダー店舗の乗り換えにはリスクが伴いかねません。
全てのノーチラスやアクアノートとは言いませんが、今現在の状況が続く限りは全国のどの正規販売店であっても希望モデルのみをピンポイントで購入相談に行かれても難しいのかもしれません。
非常に辛口のお話しが続きました。ところでノーチラスとアクアノート以外のモデルではだいぶ状況が異なります。例えば立て続けに生産中止発表されたカラトラバシリーズも、コレクションの減少からなのか非常に人気が高まっています。しかし現時点なら登録だけでも、ご購入はある程度見込めると思います。ただ今後の生産の縮小や中止等もありますので100%のお約束は出来ませんが・・


ロレックスのスポーツモデルも良く似た状況と聞く。フェラーリ、ランボルギーニやポルシェなどの限定車などの特殊車両も中々簡単には買えないらしい。片方で数年前まで結構売れていたミドルレンジと言われる時計ブランドが全般的にやや苦戦気味である。車も日常の足としての軽はそれなりに売れているらしいが国産普通車はずっと厳しい状況だ。
平成の約30年は日本の社会構造を大きく変えた。一億総中流はとっくに夢まぼろしとなり、貧富まで行かぬとも格差は確実に広がった。国際情勢もゆっくり確実にきな臭くなって来た。当然世界経済も無関係ではない。
高級時計、高級車と言った贅沢品を購入する多数の方が企業経営に携わり今現在資産をお持ちの方が多い。弱いデフレがずっと続いてきたが、もし世界レベルに緊張が走る様な事態になれば一気にインフレに振れる事だって有るから、全額現金での資産保有が必ずしも安心とは言えない。見通しのきかない不透明な近い将来に備える為にも確実に価値を維持し続けそうな投資先を選びたい。あまり大きくなく持ち運びが容易で多少使用しても価値を減じず、ライフが長くて維持費もそこそこで簡単に子孫その他に手渡せて、当局の把握もしづらいパテック フィリップやロレックスの人気高級腕時計がその対象になるのも当然の流れかもしれない。そしてこの傾向はしばらくは続きそうな気がしてならない。
でも投資対象とは全く無縁にパテックを求められる本当の時計好きは確実におられる。その手の方々はカラトラバもグランド・コンプリケーションも気に入ったパテックを購入されスポーツ系に偏り過ぎることが無い。また価格帯に関わらずSEIKOやG-SHOOKの限定モデルも嬉々として購入するし、手に入らないと本気で悔しがる。何時でも愛用の時計や気になっている次のターゲットウオッチについて何でも知りたいと思っている。素晴らしい名経営者も大先生と呼ばれる医療関係者でも、皆さん時計選びを始めると完全に少年の目になっている。そして実際に日常的に使う事が前提なので、装着感、サイズバランスや自分のライフスタイルとの相性をとても大事に考えている。そんな彼らも勿論ノーチラスが大好きだ。ただそれは後付けの資産価値に惹かれているのでは無く、純粋に時計としての魅力にぞっこんなのだと思う。
個人的にはどちらの価値観もありだと思っている。両者のバランスが重要で、あまりにも資産価値ありきになり過ぎると殺伐として『売っても、買っても楽しくない』そんな不幸な展開だけは避けたいものだ。

文責 撮影:乾
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