諸事情で長期お休みを頂戴していたブログは、本人もビックリの約半年ぶりの記事公開となる。この間のパテック フィリップの話題と言えば6月中旬に新宿で開催された" Watch Art Grand Exhibition東京2023"に尽きる。2021年開催予定が新型コロナ禍で延期を余儀なくされたが、過去最大の規模で大盛況のうち成功裏に終了した。自分自身も週末2回に渡り延べ6日訪問したが、見尽くせた感を持てない程に質も量も凄かった。開催前からこの一大イベントをどのようにブログ紹介しようかと思い悩んでいたが、現実があまりにも壮大過ぎて構想の取っ掛かりが掴めず早々と断念してしまった。今後日本限定モデルなどの実機紹介の機会を得られれば出来れば撮像も含めてトライしてみたい。
さて今回ご紹介するのは"Watch Art Grand Exhibition東京2023"でも強烈なインパクトを放っていた40種のレア・ハンドクラフト群と遺伝子を同じくする特殊で希少なモデル永久カレンダー Ref.5160/500G-001。レア・ハンドクラフト技法の一つである彫金(エングレービング)が裏蓋に至るまで見事に施されたカタログ掲載モデル二つの内の一つである。もう1型としてRef.6002スカイムーン・トゥールビヨンというダブルフェースの超絶グランド・コンプリケーションがあり、ケースだけでなく針にも彫金が施されているが、やはりレア・ハンドクラフトを代表する七宝(クロワゾネやシャンルヴェ)技法との共演と言うべき装いを纏っており、手彫金技法単独のカタログ(定番)代表モデルは、現在5160が唯一と言って差支え無いと思う。
5160で採用されている日付表示レトログラード形式の永久カレンダーをパテックは相当古くからラインナップしていた。最古かどうかは不明だがWrisitwatches(アラン・バンベリー共著)には1937年製手巻モデル(860 183)が紹介されている。ちなみにレトログラードとは一日から月末(30日や31日)まで針で一日づつ指し進め、月末から翌日(翌月1日)への切り替わりが目にも止まらぬスピードで瞬時に戻る機構を言う。この機構は日付や曜日などのカレンダー表示に限らず、時・分・秒など様々に多くのブランドで採用されている。レトログラード機構で知名度が高くその認知向上に最も貢献したのは1980年台から90年台にかけてチャールズ・ジェラルド・ジェンタ(ラグジュアリースポーツ生みの父)が自身のブランドでミッキーマウスをモチーフに製作した時計だと思う。レトログラードは見た目の面白さの反面、一般的に機械トラブルに見舞われる欠点が指摘されている。機械式クロノグラフのリセットやミニット・リピーターの打刻、はたまたデイトジャスト瞬時日送りも全てバネのダイナミックな力を使うために単純な歯車回転の時計運針とは次元の異なる機械的ストレスを抱えている。それゆえ極論を言えば壊れる覚悟はある程度必要なのだ。その為か堅実さと実用性を重んじるパテックでのレトログラード表示採用は非常に少ない。現行では前述の彫金カタログモデル2型に加えて永久カレンダー、ミニット・リピーターRef.5316の3型にすぎない。なお一ヶ月に一回だけで1年にたった12回しか瞬時帰針しないパテックの日付レトログラードモデルは壊れにくいと言えそうだ。かつて見かけた多針の秒運針レトログラード(0~20、20~40、40~60(0)秒を3本の針でリレー形式で担う)は休む事を知らずに常に落下リスクと背中合わせの空中ブランコのあやうさを感じた。
この時計の生い立ちに話を戻そう。手元資料でさかのぼるに1998年デビューのRef.5059がフルローター自動巻レトログラード永久カレンダー+オフィサーケースのルーツと思われる。その後2007年には現在のパテックを代表するフルローター自動巻エンジンCal.324にレトログラード永久カレンダーモジュールを組込んだRef.5159が発表された。このモデルをベースにエングレーブを駆使して製作されたレア・ハンドクラフトモデルが2016年から生産されている5160である。
年代順に過去3モデルを並べてみる。まずは基本的な文字盤レイアウトが現行の5160に至るまで、ほぼ1世紀に渡って変わっていない事に驚く。多少突っ込んでみると最も古い左端の860 183だけ秒針が6時位置でのスモールセコンド配置の為にアワーマーカー表示が部分的に削られていている。また時分針と日付表示針それぞれにデザイン的なメリハリが弱くて視認性に物足りなさを感じてしまう。過去3モデルに共通しているのは日付のアラビア(算用)数字の主張が強い為か時刻(アワー)にローマンインデックスを採用しバランスを取っている点だ。現行の5160はこの流れに乗っからずアラビア数字のブレゲ書体を肉厚モリモリの植字で時刻を表示している。さらに文字盤の最外周部に5分刻みで表示されるミニットインデックスもアラビア数字。書体の使い分けは好き好きだと思うが、個人的にはアラビア数字一辺倒ながらも絶妙なデザインバランスを実現している5160が大変好もしく思う。従来通りのローマン使いだとケースの彫金との相乗効果?でクラシック過ぎる仕上がりになっていたかもしれない。尚、リープイヤー表示は日付インデックスと隣接している為なのかどのモデルもローマ数字でメリハリが効かされている。
この時計の正面というのは文字盤側か裏蓋側なのかと混乱するぐらいに見惚れてしまう見事な手彫金。彫り込まれた谷部分がシャドウで暗く落ち込み、尾根というか元の平原部分が光ったハイライト状に写っている。しかし部分的にライティングをいじった2時位から6時位にかけての陰影は、全く逆転している。どちらが正しいとか良し悪しとかでなく、昼と夜、屋内と屋外で魅力的な顔を様々に持っている時計なのだ。興味深いのはジュネーブPPミュージアム所蔵の懐中時計から着想を得ている図案のモチーフである。植物由来の唐草文様に見えるが、水の流れが生み出す渦や波の様にも見える。自然界に普遍的に或るモチーフなので写実的でリアリティが有りそうだが、始まりや終わりや上下左右も無い点で抽象的なモチーフだと言える。刺青やタトゥーの図案として洋の東西を問わず非常に古くから用いられ親しまれてきた意匠にも通づるものがありそうだ。自分自身の体をキャンバスにする事は難しくとも愛用品にスピリチュアルな想いに通じる鎧を纏わせたい気持ちは大いに理解できる。
折畳み式バックル部にはブランドを象徴する4つの百合の花を組み合わせたカラトラバ十字が彫り込まれている。玉ねぎ形状のリューズ中央には2つの勾玉が追いかけっこするタイチーマーク(太極図)が有り、精神的な想いがそこ此処に見られる。頑丈な作りの裏蓋開閉用のヒンジ部はなぜか彫金仕様ではない。ケースサイドとラグへの彫金紋様は狭い事もあってかアッサリとしている。
個人的に意外なのがラグの裏側4ヶ所と12時・6時両方のラグに挟まれたケースサイド部分2か所は彫金が省かれている事だ。特にラグ部分はダイアル側と裏蓋側に潔よすぎる境界線を引いてスッパリと縁を切るように装飾が突然終わっている。大地震でぶった切られた無残な高速道路の記憶がフラッシュバックするのは私だけだろうか。着用時に見られにくいエリアであっても、オーナー自身の鑑賞の喜びが削がれる様で少し残念だ。
ハンター仕様の裏蓋は10時辺りに爪状に設けられた出っ張りを引っぱって簡単に開けられる。内側は見慣れたCal.324の裏スケルトンでムーブメントに特別な彫金仕上げなされている訳では無い。でも普段隠されている物を抉じ開けて鑑賞するというアクションが特別であり、サファイヤガラス廻りの控えめな彫金とその外側に円周状ヘアラインサテン仕上げ面、開かれた裏蓋内側の完璧な鏡面仕上げと外周縁部のサテン、これら総ての絶妙なバランスが素晴らしい。初めて見る時は勿論だが、ベールを開ける度に感動を覚えられそうなオーナー特権がありそうだ。
まさに鏡面!、歪が全く無く実際にミラーとして使用できるだろう。現行モデルでハンター構造の裏蓋仕様は5160の他にRef.5227が有り、裏蓋の内側は5160同様に見事なポリッシュ仕上げとされている。ただ異なるのは刻印が一切ない事だ。5160はポリッシュ仕上げの美しさを主張しつつ出自が控えめに外側円周状に刻印されている。リファレンス(5160/500)やケース固有番号(画像は修正加工有)が記されるパテックはごく一部のモデルを例外として大変珍しい。大半のパテックで裏スケルトン越しに読み取れるのは機械固有番号だ。面白いのは5160に共通するハンター構造を継承したと思われるカラトラバRef.5153や永久カレンダーRef.5159もほぼ同様の刻印が裏蓋内側になされていたが、その位置は中央寄りの特等席的ポジションで鏡面仕上げの美観を最優先に意識したものでは無い。残念ながら比較が容易な画像が無い点をご容赦願いたい。
中央に裏蓋同様のモチーフが手彫金されている文字盤側についてもう少し。カタログや公式HP画像で見る限りブレゲ数字のアップリケインデックス、時分針、さらに先端が赤三角の日付指針は全てが、黒に限りなく近い濃いグレーに見える。秒針は上の左画像ではブラックアウトして黒っぽいが鏡面仕上げの銀色だ。それ以外は現物を何度じっくり見ても判然としない。右画像でインデックスはまず黒く着色されている様だが、秒針以外の3本針は銀色っぽく光って何とも判り辛いが恐らくインデックスと同色の黒で間違いないだろう。この謎解きは悩ましいが同時に楽しみでもある。パテックには同様の謎を持つ時計が結構多いので機会が有れば是非チャレンジして頂きたい。
カタログ掲載の定番として希少なレア・ハンドクラフトモデルは、ノーチラスの様に誰もが希望するオールマイティーな人気とは異なり、正真正銘の王道パテックコレクターにとっての超人気モデルである。名称通り"レア"なのでともかく生産個数が限られる。作らないのでは無く、作りたくても数作れない。ニッチな世界だけれど購入ハードルはスポーツモデルの比ではなく高い。勿論、店頭に販売用在庫が並んだ記憶もない。明確な基準は無いが、ともかく馴染の正規販売店でVIP顧客になる事から始まるとしか言いようが無い。でも人気のスポーツモデル購入プロセスにも共通するが、最終的な購入は"運と縁"の結果であって、決してそれだけを目的として、そこに至る手段として他モデルを付随的に購入されるのは本末転倒な気がする。バリエーション豊かに様々なパテックにほれ込んで収集した結果として気付いたらVIPになっていて、レアハンド自らが居心地の良い住処を求めて手元にやって来ていた。なんてゆうのが理想だ。
Ref.5160/500-001
ケース径:38mm ケース厚:11.79mm
ラグ×美錠幅:20×16mm 防水:3気圧
ケースバリエーション:WGのみ
文字盤:18金文字盤、シルバー・オパーリン文字盤、ゴールド植字ブレゲ数字
ストラップ:マット(艶無し)ブラック手縫いアリゲーター
バックル:18金WGフォールドオーバークラスプ
手彫金:文字盤中央、ケース、ハンター構造の裏蓋、折畳みバックルにハンドエングレービング
価格:お問い合わせください
Caliber 324 S QR
自動巻レトログラード日付指針付永久カレンダー
直径:28mm 厚み:5.35mm 部品点数:361個 石数:30個
パワーリザーブ:最少35時間-最大45時間
テンプ:ジャイロマックス 髭ゼンマイ:Spiromax®(Silinvar®製)
振動数:28,800振動
ローター:21金センターフルローター反時計廻り片方向巻上(裏蓋側より)
PATEK PHILIPPE INTERNATONAL MAGAZINE Vol.Ⅱ No.01
Wristwatches Martin Huber & Alan Banbery
文責・撮影:乾
画像修正:新田